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認知症医療は今、大きな転換点を迎えている
今回からしばらく、アルツハイマー病について書いてみようと思う。
以前、このコラムでも脳内のマクロファージとも言える「ミクログリア」や、アルツハイマー病との関係について少し触れた。しかし、その後の認知症研究の進歩は著しい。昔なら「認知症になったら進行を遅らせるのが精一杯」と説明するしかなかったが、最近では病気の診断方法そのものが変わり、曲がりなりにも病気の原因に働きかける薬まで登場してきた。
もっとも、「ついにアルツハイマー病が治るようになった!」と喜べるところまでは来ていない。新しい薬にも効果の限界があり、重大な副作用もあり、投与できる患者さんも限られている。それでも、長い間ほとんど動かなかった巨大な岩が、ようやく少し動き始めたのは間違いない。そこで、アルツハイマー病について改めて整理してみたい。
アルツハイマー病とは何なのか。なぜ人は物を忘れるようになるのか。脳の中では何が起こっているのか。アルツハイマー病、パーキンソン病、糖尿病は、本当に全く別の病気なのか。そして、脳へ薬を届けるための「鼻腔投与」という新しい治療法には、どのような可能性があるのか。
この辺りを何回かに分けて考えていこうと思う。
まず、基本的なことから。
1. 「認知症」と「アルツハイマー病」は同じではない。

認知症とアルツハイマー病を同じ意味で使っている方が多いが、正確には同じものではない。 認知症とは、記憶、判断、言語、注意、計画、空間認識などの認知機能が低下し、それまで普通にできていた日常生活や社会生活に支障を来すようになった「状態」のことを言う。つまり「認知症」は病名というより、症候群である。
これは「黄疸」や「心不全」と似ている。黄疸を起こす病気には肝炎、胆石、胆管癌、溶血など色々ある。心不全も心筋梗塞、弁膜症、心筋症、不整脈、高血圧など、様々な病気の結果として起こる。
同じように、認知症にも色々な原因がある。最も多いのがアルツハイマー病であるが、それ以外にも、脳梗塞や脳出血などによる血管性認知症、レビー小体型認知症、前頭側頭型認知症、正常圧水頭症、慢性硬膜下血腫、甲状腺機能低下症、ビタミン欠乏、薬剤の影響などがある。 原因によっては治療により改善するものもある。例えば、歩行障害、尿失禁、認知機能低下を特徴とする正常圧水頭症なら、髄液を逃がすシャント手術によって症状が改善する場合がある。慢性硬膜下血腫なら、血腫を除去すれば回復する可能性がある。甲状腺ホルモンやビタミンB12が不足しているなら、それを補充すればよい。ところが、高齢者が物忘れを訴えると、十分な検査もせずに「年齢ですから」「認知症でしょう」と片付けられてしまうことがある。これは少々乱暴だ。物忘れの原因はアルツハイマー病だけではない。うつ病、睡眠不足、睡眠時無呼吸、難聴、薬剤、感染症、脱水、アルコールなどでも認知機能は低下する。高齢者では、睡眠薬、抗不安薬、抗コリン作用のある薬、鎮痛薬などが影響しているケースも珍しくない。
特に難聴は見落とされやすい。質問が聞こえていないから答えられないのに、「認知機能が低下している」と判断されている方がいる。本人も周囲の会話が聞き取れないため、次第に人との交流を避けるようになり、社会的刺激が減って、結果的に認知機能の低下が進んでしまう。
目が悪くても同じだ。認知症の診療というと、すぐに脳だけを見ようとする。しかし人の認知機能は、脳だけで独立して動いているわけではない。耳、目、睡眠、血管、代謝、筋肉、腸、免疫、さらには人との会話まで含めた全身のシステムの上に成り立っている。脳だけ見ていても、脳の病気は分からないことがあるのだ。
2. 年を取れば物忘れするのは当たり前か

患者さんからよく聞かれる。
「最近、人の名前が出てこないのですが、認知症でしょうか?」医師も年齢を重ねると、この質問に妙な親近感を覚える。顔は分かる。どこで会ったかも分かる。職業も思い出せる。ところが名前だけが出てこない。「あの、ほら、以前一緒に食事をした、背の高い、眼鏡をかけた……」ここまで出ているのに名前が出ない。翌日の風呂場で突然思い出したりする。これは多くの場合、加齢に伴う通常の物忘れである。情報そのものが消えてしまったというより、脳の引き出しから取り出す速度が遅くなっている。時間をかけたり、ヒントを与えたりすれば思い出せる。
一方、アルツハイマー病で問題になるのは、出来事の一部ではなく、出来事そのものが記憶から抜け落ちることだ。朝食に何を食べたか思い出せないのは、年齢による物忘れでも起こる。しかし、朝食を食べたこと自体を忘れ、「まだ食べていない」と言うようになれば病的な記憶障害を疑う。
旅行先で会った人の名前が出てこないのと、旅行へ行ったこと自体を忘れるのは違う。
約束の時刻を忘れるのと、約束したこと自体を忘れるのも違う。もっとも、現実はこのように教科書通り、綺麗に分かれてはくれない。正常な加齢と軽度認知障害、初期の認知症の間には、はっきりした線が引けないことも多い。
この中間に位置するのが、軽度認知障害、いわゆるMCI(Mild Cognitive Impairment)だ。認知機能の低下は認めるが、まだ日常生活の自立性は概ね保たれている状態である。買い物もできる。服薬もできる。仕事も一応続けている。しかし、同じことを何度も聞く、以前より段取りが悪い、支払いを忘れる、複雑な手続きができない、料理の品数が減るといった変化が出てくる。この段階で全ての人が認知症へ進むわけではない。原因によっては改善することもある。だからこそ、「まだ生活できているから大丈夫」と放置せず、逆に「MCIだから必ずアルツハイマー病になる」と決めつけることもなく、原因を調べる必要がある。
3. アルツハイマー病は、症状が出る前から始まっている。

かつてアルツハイマー病は、物忘れなどの症状が現れてから診断する病気だった。
問診をして、長谷川式認知症スケールやMMSEなどの認知機能検査を行い、CTやMRIで脳の萎縮を調べる。そして、他の病気を除外した上で「おそらくアルツハイマー型認知症でしょう」と診断していた。しかし現在、この考え方は大きく変わってきている。アルツハイマー病の病理変化は、認知症の症状が現れる何年も前、場合によっては十数年以上前から始まっていることが分かってきたからだ。
例えるなら、物忘れという症状は、建物の壁にひびが入った段階である。しかし、そのずっと前から基礎部分では腐食が進み、配管には錆が生じ、見えない場所で少しずつ構造が弱くなっている。壁のひびを見つけた時には、病気は昨日今日始まったものではない。
脳内では、アミロイドβやタウと呼ばれる蛋白質の異常、シナプス機能の低下、炎症、血管障害、代謝異常などが長い時間をかけて進んでいる。2024年に公表されたアルツハイマー病の診断・病期分類基準では、アルツハイマー病を症状だけでなく、バイオマーカーによって捉える「生物学的な病気」として定義する考え方が、さらに明確に示された。つまり、まだ物忘れがなくても、脳内に特徴的な病理変化が始まっていれば、アルツハイマー病の生物学的過程に入っていると考えるわけだ。
この考え方には議論もある。アミロイドが脳に蓄積していても、一生認知症を発症しない人がいるからだ。
バイオマーカーが陽性だからといって、その人がいつ症状を発症するかを正確に予言できるわけではない。無症状の方に「あなたはアルツハイマー病です」と告知することが、本当に本人の利益になるのかという問題もある。保険、就労、運転免許、家族関係に影響する可能性もある。
検査ができるようになることと、検査をすべきであることは同じではない。医学では、新しい検査法が登場すると、とにかく測りたくなる。しかし、測った後に何をするのかまで決まっていなければ、患者さんに不安だけを渡すことになりかねない。この辺りは、これから臨床現場で慎重に議論しなければならない。
4. アロイス・アルツハイマーが見たもの

アルツハイマー病という名前は、ドイツの精神科医アロイス・アルツハイマーに由来する。1901年、彼はフランクフルトの精神病院で、アウグステ・データーという51歳の女性患者を診察した。彼女には記憶障害だけでなく、言語障害、見当識障害、妄想、行動の変化などがあった。まだ51歳である。現在の感覚でも若いが、当時としても「老年性の物忘れ」で説明できる年齢ではなかった。アルツハイマーは彼女に質問する。「お名前は?」「アウグステです」「姓は?」「アウグステです」「ご主人のお名前は?」「多分、アウグステです」彼女は質問を理解しているようで、答えを組み立てられない。物を見せても名前が出てこない。書こうとしても、途中で何を書いているのか分からなくなってしまう。1906年、彼女が亡くなった後、アルツハイマーはその脳を顕微鏡で調べた。そこで神経細胞の周囲に沈着する異常な物質と、神経細胞の内部に絡み合った線維状の構造を発見した。現在でいう「老人斑」と「神経原線維変化」である。老人斑の主成分がアミロイドβ、神経原線維変化の主成分が異常なタウ蛋白である。100年以上前に顕微鏡で見つかった二つの構造が、現在でもアルツハイマー病研究の中心にある。 医学は進んだようで、実はまだ、この二つを相手に格闘しているのだ。
5. 脳にたまる「ゴミ」が原因なのか

アルツハイマー病の脳で最も有名なのが、アミロイドβである。アミロイドβは、神経細胞の膜に存在するAPP(Amyloid Precursor Protein)という蛋白質が切断される過程で生じる。アミロイドβそのものは、アルツハイマー病患者にだけ存在する異常物質ではない。健康な人の脳でも作られている。通常は産生と排出のバランスが保たれているが、何らかの理由で作られ過ぎたり、排出されにくくなったりすると、次第に脳内に蓄積する。最初は小さな集合体を形成し、やがて線維化し、老人斑となる。このアミロイドβが神経細胞の機能を障害し、その後タウ蛋白の異常、神経細胞死、脳萎縮を引き起こすというのが、有名な「アミロイドカスケード仮説」である。
滝の上流でアミロイドβが蓄積し、それが引き金となって、下流でタウ異常、炎症、神経細胞死が連鎖的に起こると考える。それなら、アミロイドβを取り除けば病気は治るはずだ。理屈は単純である。そこで世界中の製薬会社が、アミロイドβの産生を抑える薬、凝集を防ぐ薬、抗体を用いて除去する薬などを開発してきた。ところが、長い間ほとんどの薬が臨床試験で失敗した。アミロイドβは減っても認知機能が改善しない。あるいは、副作用が強くて治療を続けられない。医学研究では理論が綺麗であればあるほど、失敗した時の衝撃は大きい。アミロイドβが原因なら、除去すれば治るはずなのに、なぜ治らないのか。「アミロイド仮説は間違っているのではないか」という声が強くなったのも当然だろう。しかし、話はそれほど単純ではなかった。