組織の常套手段は、cellを作ってそのいくつかを単位として構造的な縦割り系列を作ることだ。国、都道府県、市区町村の指揮・情報系統の流れは、そのまま医療界にも当てはまる。国レベルで活動する日本医師会があり、都道府県単位で動く都道府県医師会、その下に郡市区医師会が連なる。郡市区医師会は地域、自治体単位で分割され、世田谷区医師会を例にとると、部会という単位で10分割され、それがまた班という最小単位に分けられる。班は近隣の医療機関5〜10軒程度で形成される隣組だ。開業医は宴会、飲み会が好きな人が多いので、班会、部会、地区医師会で年に何回も飲みニケーションが行われる。友人との楽しい飲み会ではないから、それを苦痛に感じる会員も少なくない。
IT時代前は、医師会幹部に限定して得られる情報が多くあり、情報は権力と結びついていた。情報富者と情報貧者の差は大きく、系列の下位の医師は常に情報貧者に留まっていたので、その情報を握っている医師会幹部を宴会に呼んで説明を聞くことを欲した。呼ばれた医師会幹部は上席に座り、太鼓持ちから煽てられ、悦に入って美酒をいただく。そのため40〜50年前の医師会では、医師会理事になりたい、幹部になりたい、そうして他の医師の上位で奉られたい、と考えた医師もいたようだ。最近は、情報がWeb上に溢れるほどあり、専門家による解説もYouTubeで見られるので、情報による貧富の差は少なくなった。むしろ、国、都道府県という縦系列の情報伝達を無批判に医師会員に流すことで、間違った政策、どうでも良いような縛りや無理難題、難癖、担当省庁による押しつけに近い規則の遵守を医師会員に強いることも少なくない。
医専とは?
同じ班にK先生という耳鼻科医がいらして、会員名簿には「東大卒」と書かれていた。班会の懇親会で、私が日本大学卒の神経内科専門医であると自己紹介したところ、K先生が「僕も日大卒なんだよ」と話しかけてくれた。「名簿には東大卒とありましたけど」と尋ねると「最終学歴はね。私らの頃は戦争があったでしょ?その頃は、日本大学専門部医学校っていってたわけ。だけど、医専卒の医師は本科卒より下に見られるのが頭にきて、東大の医局に入れてもらったの。それで東大卒というわけです」と説明してくれた。
明治時代から大正時代前期まで、政府は帝国大学以外に大学としての高等教育を認めておらず、医師の養成は大学レベルの帝国大学と専門学校レベルの医学専門学校の2系統で行われていた。
旧制医学専門学校は、5年制の旧制中学校・高等女学校卒業したものが入学し、高等予備教育(旧制高等学校もしくは大学予科)を経ずに4年もしくは5年を学修年限とした、臨床医の即時養成を主な目的としたものだった。日本大学専門部医学校は1925年に創設され、1942年に医学部に昇格、戦後1952年に新学制制度により医学部医学科に移行認可された。
医学教育と医師不足
日本だけでなく、恐らく世界各国で、医師の養成については色々と問題を抱えていると思われる。医師の専門性と生死に関わる倫理性をしっかりと教育して、良医を社会に放ち国民を守ることは国の責務だ。そのため即成栽培は不可能な職種であることは分かってはいるが、人口が増加する、医療ニーズが増える、戦争になった、災害になった、という時には数が必要だ。しかし、人口が減少すれば対人口当たりの医師数は減らす必要がある。現代のように直美(研修後すぐに美容整形医になり就職する)、直産(研修後すぐに産業医になって臨床医にならない)といわれる従来の臨床医としての深い経験を積むことを忌避する医師たちが増えると、医師の診療科の割り当て分担が必要になる。日本では、医師は大都市に余るほど多くいて、地方の市町村に医師数は少なく足りていない。現状を把握し、将来の予測を立てて国の医療保障の骨格をfitさせていくのはなかなか難しい。
2012年の Missouri Medicineに、Betty M Drees と Kenan Omurtag が書いた論文 ”Accelerated Medical Education: Past, Present and Future” には、「医学教育の変革は、1)学生の学習環境と教育の質を維持し、2)大学や医療センターの教員と組織的資源の範囲内で、3)社会が必要とする数と種類の質の高い医師を育成すること、という3つの要素を満たすものでなければならない」とある。時代にfitさせるには、医学教育という腰の重いシステムを、スピード感を持って変革して行くことが必要となる。
米国でも、地域医療に従事する医師の減少が大きな問題となっている。米国で医師といえば外科医を思い浮かべるほど外科の国だったが、今は内科医が圧倒的に多い(3〜4倍)。米オハイオ州立大学ウェクスナー医療センターの外科腫瘍医 Timothy Pawlik 氏らが2013年から2023年にかけて追跡調査研究した結果が、「Journal of the American College of Surgeons」に2026年5月に掲載された。この研究によると、外科医の約10%が臨床現場から離脱していたことが分かったという。米国の医療は外科医不足にも直面している。
最近では、患者が横たわる手術台から離れたプースで操作するロボット手術が増え、患者に触れない外科医が多くなったことに危機感を感じているようだ。直接患者にメスを入れる開腹手術や開胸手術が、腹腔鏡手術や胸腔鏡手術に取って代わられた時に、直接臓器に触れて行う外科医のスキル、そのコツやartisticな技術の伝承が途絶えることに危機感を抱いたのと同じような危機感をアメリカの外科医の教育に携わる医師たちは抱いている。
そのため、外科学会では、外科医の熟練度を保つために、ある一定の規定を作ろうとしている。バイクでも、2週間乗っていないと、それまで当たり前に出来ていたブレーキ操作やクラッチ操作、カーブの体重移動や目線の位置を忘れてしまって、走り始めに戸惑うことも多い。外科の手術機器操作も同じだろう。
全医師数についてみると、2012年で推定6万人の医師不足があり、2020年までに9万人に上ると推定された。アメリカ医科大学協会によると、2034年までに最大12万4千人の医師不足が見込まれ、そのうち約4割の4万8千人がプライマリケア医の不足だという。
2種類の医師養成学校
日本には、先述した医専(旧制医学専門学校)出身の医師と、旧制大学医学部、旧制医科大学出身の医師の2種類の医師がいたことは先述した。日本の医学校の歴史についてはまた項を替えて詳述したいが、その端緒は明治時代末期に遡る。
当時の政府の要請により高等教育を経て医師養成で医師になった者は、高等予備教育(今でいう一般教養、リベラル・アーツ教育)を行っていた、旧制高等学校もしくは大学予科を修了後、旧制大学医学部・旧制医科大学に入学して医師になった。卒業生は今のような国家試験を受けず(既に医師としての質が担保されたとして)そのまま医師としての医業を行うことを許された。他方臨床医の即時養成を目的とした旧制医学専門学校は、旧制中学校・高等女学校卒業により入学し、高等予備教育を経ずに4年若しくは5年の学修年限により医師の資格を与えられた。そのため、後者は研究者や教員として母校に残る者は少なく、臨床医として地域の医療機関に勤務、または開業して地域医療を担う医師となった。前者は、医学研究者、医学教育者として期待され、卒後は医学・医療の進歩・発達を旨として、まだ未整備であった官立・公立病院の院長として大学の命を受けて各地に赴任した。
明治末期、専門学校令公布前後から大正年間の大学令公布までの間に設置された医学専門学校は、次のとおりである。
官立(国立)
1901年 千葉医学専門学校(旧第一高等学校医学部)(千葉医科大学)
1901年 仙台医学専門学校(旧第二高等学校医学部)(東北帝国大学医科大学)
1901年 岡山医学専門学校(旧第三高等学校医学部)(岡山医科大学)
1901年 金沢医学専門学校(旧第四高等学校医学部)(金沢医科大学)
1901年 長崎医学専門学校(旧第五高等学校医学部)(長崎医科大学)
1910年 新潟医学専門学校(新潟医科大学)
公立
1903年 愛知県立医学専門学校(愛知医科大学→名古屋医科大学→名古屋帝国大学医学部)
1903年 京都府立医学専門学校(京都府立医科大学)
1903年 大阪府立高等医学校(大阪府立大阪医科大学(専門学校令準拠)を経て大阪医科大学→大阪帝国大学医学部)
私立
1903年 東京慈恵医院医学専門学校(東京慈恵会医科大学)
1904年 熊本医学専門学校(熊本県立医学専門学校→熊本医科大学)
1912年 日本医学専門学校(日本医科大学)
1912年 東京女子医学専門学校(東京女子医科大学)
1918年 東京医学専門学校
医学専門学校から医学部への変化
一中、一高、帝大というのが、日本のエリート社会の構成員が好んだ学歴だった。旧制中学は5年制で卒業時には17才になる。優秀な学生は飛び級して次の上級学校に入れたという。旧制高校は3年で、1学年の定員と帝国大学の定員がほぼ1対1であったため、旧制高等学校の卒業証書さえあれば、専攻を選ばない限り、どこかの帝国大学に無試験で入学できたという。こうした「身分保証」があったため、勉強はそこそこに学生生活を謳歌した旧制高校生も多かった。
旧制一高は、旧制高等学校の中でも早い時期に創設されたナンバースクールの先駆けであり、1886年(明治19年)に、日本の近代国家建設のために必要な人材の育成を目的として、第一高等中学校として創設された。その後第一次高等学校令(明治27年)で第一高等学校となった。帝国大学の予科と位置付けられ、修学期間は3年だった。その内容を見ると、すでに専門領域に分かれていて、一部は法学・政治学・文学専攻、二部は工学・理学・農学・薬学専攻、三部は医学専攻となっていたようだが、どんな教育がそれぞれの学部で行われていたのかは調べてみたが良くわからなかった。
その後明治27年7月には高等学校令の施行に伴い、三部は第一高等学校医学部となっている。明治34年4月に千葉医学専門学校(4年制)と改称。大正期には、高等教育機関拡充政策により、医科大学に昇格し、千葉医科大学となった。戦後昭和24年 5月に国立学校設置法が公布されると、新制千葉大学が設置され、同時に千葉医科大学を母体とした千葉大学医学部が置かれた。旧制一高は現在の東京大学教養学部および、千葉大学医学部、千葉大学薬学部の前身だった。
(次号に続く)
資料
- 日本医師会の組織:https://x.gd/ul5p5.
- 厚生労働省、都道府県(従業地)別にみた医療施設に従事する人口10万対医師数:https://x.gd/rzU6T.
- Betty M Drees, Kenan Omurtag:Accelerated Medical Education: Past, Present and Future, Missouri Medicine 2012 Sep-Oct;109(5):352–356. https://x.gd/7W7Vy.
- 国立がん研究センター東病院:https://x.gd/DbmI1.
- 旧制医学専門学校(Wikipedia):https://x.gd/5AA74.
- 千葉大学大学院医学研究院・医学部:https://x.gd/5zx4C.



