会員登録者数 55,000人突破!!

記事・コラム 2026.04.07

プロフェッショナルインタビュー

第3回「結果が悪かったときには患者さんとの認識の差が生まれます。」旭川赤十字病院 副院長 瀧澤克己先生

話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!

どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
 情熱大陸

今回は【旭川赤十字病院 脳神経外科 副院長】の瀧澤克己先生のインタビューです!
テーマは 第3回「結果が悪かったときには患者さんとの認識の差が生まれます。」をお話しいただきます。

プロフィール

名前
瀧澤(たきざわ) 克己(かつみ)
病院名
旭川赤十字病院
所属
脳神経外科
日本脳卒中の外科学会、日本頭蓋底外科学会、日本救急医学会、医療の質・安全学会にも所属する。
資格
  • 日本脳神経外科学会専門医
  • 日本脳卒中学会認定医・指導医・評議員
  • 旭川医科大学臨床指導教授
  • 藤田医科大学ばんたね病院客員教授
  • 日本脳神経外科救急学会評議員
  • 日本意識障害学会評議員
  • 病院総合医など。
経歴
  • 1965年北海道虻田郡倶知安町で生まれる。
  • 1990年旭川医科大学を卒業後、旭川医科大学脳神経外科に入局する。
  • 1996年旭川赤十字病院脳神経外科に勤務する。
  • 1998年秋田県立脳血管研究センター(現 秋田県立循環器・脳脊髄センター)研究員となる。
  • 2000年旭川赤十字病院脳神経外科に勤務する。
  • 2007年旭川赤十字病院脳神経外科第三部長に就任する。
  • 2010年旭川赤十字病院脳神経外科第二部長に就任し、医療安全推進室長を兼任する。
  • 2011年旭川医科大学臨床教授を兼任する。
  • 2012年旭川赤十字病院脳神経外科第一部長に就任し、上席院長補佐を兼任する。
  • 2015年藤田医科大学ばんたね病院客員教授を兼任する。
  • 2020年旭川赤十字病院副院長を兼任する。

─ 先生の世代で、卒後10年も経っていないときに開業以外の理由で医局を辞められるのは早いですよね。

時代からすると早いですね。私は決断が早いんです(笑)。でも医局を辞めても旭川赤十字病院にいられるわけではありません。旭川赤十字病院には旭川医科大学からの派遣の枠はありますが、私が医局を辞めてもその枠が私のものにはならないですし、次にどこに行くかも決めていないのに、「辞めます」と言ってしまったんです。上山博康先生にも相談していませんでした。当時は結婚して、子どもも1人いましたが、妻にも相談していませんでした。それまでは医局人事で動いていたので、次にどこで働こうかと言ったところで厳しい状況でした。4月からの新年度まで1カ月を切っていましたしね。

─ それで、どうなさったのですか。

上山先生には医局を辞めた話を直接はしていませんでしたが、上山先生は看護師さんからお聞きになったようなんです。それで秋田県立脳血管研究センター(現 秋田県立循環器・脳脊髄センター)の脳神経外科部長でいらした安井信之先生に連絡を取り、私の受け入れをお願いしてくださいました。県立の病院で、正職員の枠は決まっていて空きはありませんでしたが、「非常勤の枠ならいいですよ」ということになり、4月まであと2、3週間というところでしたが、急遽、秋田に行くことになりました。

─ ご家族もご一緒に行かれたのですか。

そうです。「秋田に行くことになったから」と言って、家族を車に乗せ、函館からフェリーで秋田に向かいました。秋田県立脳血管研究センターは当時は秋田脳研と呼ばれていましたが、上山先生も修行されたところなんです。秋田脳研には伊藤善太郎先生というすごい先生がおられ、私にとっての上山先生みたいな、上山先生にとっての師匠でした。上山先生は伊藤先生から手術を学んでおられましたが、伊藤先生が事故からの怪我で亡くなったこともあって北大に戻られ、その後、旭川赤十字病院にいらしていたんですね。

─ 上山先生と同じように、先生も秋田で修行されたのですね。

最初は研修医のような感じで勤務を始めたのですが、半年が経つと正職員にしていただきました。そして1年後ぐらいから手術も少しずつさせてもらえるようになりました。秋田脳研は大学閥がなく色々な大学から医師が研修に来ていて、皆で切磋琢磨して学んでいました。秋田でできた仲間とは今も仲良しなんですよ。私としてはずっと秋田にいるつもりでしたが、2年経った頃に上山先生から「旭川赤十字病院の脳神経外科で枠が空いたから戻ってこないか」という話をいただき、旭川赤十字病院に戻ってきて、現在まで勤務しています。今度は医局人事ではなく、旭川赤十字病院に就職したみたいな感じですね。

富山学会での会長招宴 上山先生、加藤先生と

旭川赤十字病院に戻る

─ 旭川赤十字病院に戻られてすぐから手術に打ち込まれたのですか。

戻ってきたときには中堅ぐらいのポジションでしたし、私と同年代で北大から来ているスタッフもいましたので、立場的にはその先生のほうがメインで、私がその下にいました。

その後、2006年に上山先生が「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演されて一気にブレイクし、全国から手術希望の患者さんが集まってきたり、色々な病院から手術に呼ばれたりするようになりました。私はその下請け的な仕事を全て引き受けていたので、それが認められ、上山先生が札幌に移られるときに次の部長にしていただきました。

私は若い頃、手術となると手が震えていたことがありました。手が震えると血管縫合ができなくなります。それで上山先生から「手術は無理だな。なら血管内治療はどうか」と言われたこともありました。血管内治療なら血管内治療で頑張っていたと思いますが、上山先生が札幌に移られた頃には手の震えもなくなり、多くの手術を経験して、自信が持てるようになっていました。

─ どのようにして、自信をつけていかれたのですか。

それなりの経験をさせていただいたことに加え、上山先生が師匠だったことが大きいですね。上山先生は「見て覚えろ」みたいな教え方でしたが、私は上山先生の手術にはほぼ一緒に入っていましたし、外の病院に行かれるときも助手として同行させてもらえました。これらの経験が大きな財産になっています。

手術のときは私が開頭して、上山先生に引き継ぎ、上山先生の手がどのように動くのか、その全てを吸収しようと集中していました。また、福島孝徳先生がアメリカにいらっしゃったときに、上山先生から「勉強してこい」と言われ、毎年1週間ぐらいの解剖コースがあるのですが、そこに6、7回ほど自費で参加し、脳腫瘍や頭蓋底の手技も学びました。

─ 福島先生も若手の教育に熱心でいらっしゃいましたよね。

上山先生とキャラクター的には似ていらっしゃいますよね。お二人とも血液型がAB型だからか、濃いんですよ(笑)。

─ 先生の診療方針をお聞かせください。

医師として大事にしていることは「患者さん第一」です。患者さんにとって何が最善なのかを常に考えるようにしています。患者さんが治ることが一番の目的です。しかし、手術が目的になっている医師も多く、「見て覚える」ことに我慢できる人が少なくなっていることが心配です。自分が手術をしても患者さんが良くなるか分からないのであれば、患者さんのためにも「見て覚える」ことを勧めたいです。

─ 先生の座右の銘もお聞かせください。

「凡事徹底」です。当たり前のことを徹底的に行うこと、当たり前のことを極めること、他人の追随を許さないことです。私は患者さんを第一に考えるからこそ、手術に自信がないときは執刀せず、見て学ぶことを徹底していました。それから、前回お話ししたような雑用的な仕事を引き受けたり、開閉頭のような基本手技を誰よりも経験してきました。そのときの自分にできることを引き受け、その経験を積み上げてきたのだと思います。

患者さんと(ベトナム、ハノイのベトドク病院にて)

医療安全について

─ 先生は医療安全にも力を入れておられますよね。

医療安全に力を入れようという国の施策の中で、当院にも10年ほど前に医療安全推進室ができたのですが、医療安全推進室長を務めていた先生が退職することになり、前の院長から私が指名されたんです。頼まれると基本的には「いいですよ」ということになりがちです(笑)。ただし、やるからには嫌々ではなく、しっかりやりたいですし、色々と勉強をしていくと、それが楽しくなってきます。医療安全では対話や傾聴が大切で、その研修を院内のみならず、日本赤十字社の本社でも受けたり、オンラインでも学んだりしました。

─ 始めてみて、いかがでしたか。

改めて傾聴や対話について学んだわけですが、それまでの仕事の中でしてきたことではありました。例えば上山先生のもとにいらっしゃる患者さんは簡単な症例ばかりではありません。

本州から来られた方で、歩いて来院されても歩いて帰れなくなった方もいます。上山先生は「大丈夫」という説明しかされませんので、結果が悪かったときには患者さんとの認識の差が生まれます。一歩間違ったら訴訟になりそうなこともあるのですが、上山先生は1件も訴訟になっていないんです。これは患者さんを飛行機に乗せて地元まで送ったり、訴訟になる前に患者さんやご家族としっかり話をして理解してもらったり、こじれないようにしていたからだと思います。私たちは医療安全における医療対話ができていたんですね。

自己研鑽ではじめて、最終的には日赤本社での研修のチーフタスクになりました。でも、これは本当にすべての医療者ができなくてはいけない普通のことだと思います。医療安全の前は栄養管理を担当していたのですが、これも特別ではなく、普通のことだと認識していました。

地域連携について

─ 副院長としてのご担当はほかにもありますか。

医療安全のほかは地域連携と情報システムを担当しています。地域連携では顔が見えて、仲の良いお付き合いをしていれば、紹介もスムーズに進みますので、そういう関係を作れるように病院訪問などをしています。脳神経外科だけで言いますと、当院の脳神経外科は知名度もありますし、多くの紹介を受けいていますが、決してそれを当たり前とは考えず、今後も紹介をいただけるように取り組んでいます。

病院有志による還暦祝いの会

─ 脳神経外科は地域連携が前提の診療科ですよね。

そうですね。既にできあがっている連携ではありますが、現在、医師の偏在が問題となっています。旭川市から稚内市までを道北地方と言いますが、この三次医療圏の面積は四国4県に相当します。しかし、この中で脳神経外科医がいるのは旭川市と留萌市と稚内市だけなんです。

以前は真ん中あたりの名寄市立病院にも脳神経外科医がいました。名寄市立総合病院には救命救急センターがありますし、脳神経外科には旭川医大からの常勤医師が2人いたのですが、2人とも退職されたんです。また留萌市立病院も一人の常勤医がいましたが、定年退職された後は常勤医が不在となりました。ところが、どちらの病院も大学医局から代わりの常勤医の派遣が受けられないとのことで、今は当院から2つの病院に1週間交代で医師を派遣するなど、大学の医局のようなこともやっています。

─ 大変な状況なのですね。

人がいなくて、大変です。当科の場合は私が学会で発表したりする中で、当科で勉強したいという人が個人的に研修に来たり、横浜市立大学や東京科学大学の教授が国内留学の形で医局員を出してくれたりしていますので、現在は私を含めて11人の医師が在籍しています。11人がいると言っても働き方改革もありますので、ぎりぎりの人数ですね。ただ留萌や名寄に行くとそこまで忙しくはなく、時間外勤務を減らせる1週間になりますのでWin-Winになっています。

─ 今も北海道大学出身の方が多い科なのですか。

今は旭川医大のほうが多いですね。もちろん、専攻医研修では北大の連携施設となっていますが、様々な大学の出身者が集まっています。