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記事・コラム 2026.03.24

プロフェッショナルインタビュー

第2回「脳神経外科を目指したのもスキー部がきっかけなんです」旭川赤十字病院 副院長 瀧澤克己先生

話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!

どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
 情熱大陸

今回は【旭川赤十字病院 脳神経外科 副院長】の瀧澤克己先生のインタビューです!
テーマは 第2回「脳神経外科を目指したのもスキー部がきっかけなんです」をお話しいただきます。

プロフィール

名前
瀧澤(たきざわ) 克己(かつみ)
病院名
旭川赤十字病院
所属
脳神経外科
日本脳卒中の外科学会、日本頭蓋底外科学会、日本救急医学会、医療の質・安全学会にも所属する。
資格
  • 日本脳神経外科学会専門医
  • 日本脳卒中学会認定医・指導医・評議員
  • 旭川医科大学臨床指導教授
  • 藤田医科大学ばんたね病院客員教授
  • 日本脳神経外科救急学会評議員
  • 日本意識障害学会評議員
  • 病院総合医など。
経歴
  • 1965年北海道虻田郡倶知安町で生まれる。
  • 1990年旭川医科大学を卒業後、旭川医科大学脳神経外科に入局する。
  • 1996年旭川赤十字病院脳神経外科に勤務する。
  • 1998年秋田県立脳血管研究センター(現 秋田県立循環器・脳脊髄センター)研究員となる。
  • 2000年旭川赤十字病院脳神経外科に勤務する。
  • 2007年旭川赤十字病院脳神経外科第三部長に就任する。
  • 2010年旭川赤十字病院脳神経外科第二部長に就任し、医療安全推進室長を兼任する。
  • 2011年旭川医科大学臨床教授を兼任する。
  • 2012年旭川赤十字病院脳神経外科第一部長に就任し、上席院長補佐を兼任する。
  • 2015年藤田医科大学ばんたね病院客員教授を兼任する。
  • 2020年旭川赤十字病院副院長を兼任する。

─ 先生は倶知安町のご出身なのですね。

倶知安町はスキーリゾートで有名なニセコの近くにあります。私の父は中学校の教員をしていたのですが、倶知安町周辺の中学校を転々と勤務していました。中学の時に住んでいた町では中学校がひとつだけだったので、当然父もそこで働いており、父の授業を受けたこともありました。都会のような厳しさのない田舎の中では成績は良かったです(笑)。

─ 医師を目指されたのはどうしてですか。

父は日本海沿いの島牧村の出身でした。最近は北海道ではどこでもクマがよく出てますが、昔は街にクマがでるということは実際にはありませんでした。でも、そのあたりは当時からクマが出るような僻地で、病院もなかったそうです。その父から「医師になったら」と勧められたことが医師を目指したきっかけの一つです。

倶知安町周辺では成績がいいと札幌の高校を目指すケースが多いのですが、私は札幌を飛び越え、旭川東高校に進学しました。旭川の高校を選んだ理由は母の実家が旭川市の隣の深川町にあり、そのあたりに親戚もいたからです。これも親から勧められました(笑)。

─ 旭川東高校は北口榛花さんの母校でもありますね。

北口さんはうちの息子と同じ中学校出身なんです。学年も近く、妻や子どもたちは以前から知っている存在でした。北口さんは中学ではバドミントンと競泳をしていて、やり投げは高校からなのに、始めて2年目で全国高校1位になって、それから世界一ですから、本当にすごいですよね。私も中学校まで陸上部で、高校でも1年間は陸上部に所属していたので、北口さんのなんちゃって先輩です(笑)。

陸上部を辞めてからは勉強したり、遊んだりしながら、医学部を目指しました。旭川にある高校に通っていると、やはり旭川医科大学は身近な存在です。旭川医大には今は地域枠がありますが、当時はありませんでした。それでも定員120人のうち、旭川東高校から20人ぐらいが入学していたんです。私は何も知らずに進学しましたが、父は教員ということもあり、そういう情報を知っていて、「旭川医大を目指したら」と勧めてきたので、「じゃあ行くか」となりました。私から医師になりたい、医学部に行きたいと言ったわけではなかったです。

─ 大学生活はいかがでしたか。

スキー部に入り、競技スキーをしていました。旭川医大は当時、東医体で5連覇していた全盛時代でした。でも、私はそんなに活躍していません(笑)。私の2つ上でキャプテンだった先輩は旭川赤十字病院の皮膚科におられます。東医体の競技スキーには3種目あったのですが、全部に優勝するような先輩でした。あとでお話ししますが、脳神経外科を目指したのもスキー部がきっかけなんですよ。

日本 学会での発表の様子

脳神経外科医になる

─ どのようなきっかけなのですか。

今は臨床実習と呼ばれているポリクリが4年の冬から始まり、最初に回ったのが脳神経外科だったんです。でも、その週はたまたまスキーの大会と重なり、いきなり休むことになってしまいました。それで冬休み期間に一人だけ別扱いで脳神経外科を回ることになったんです。一人で行くとなると、医局の先生方も結構相手をしてくださるので、上の先生方と仲良くなりました。

その当時の脳神経外科はあまり人気がなく、毎年1人入局するかどうかという感じで、5年生になった頃から勧誘していただくようになり、医局に出入りするようになったんです。今は初期研修で興味のある科を回って、最終的にどこに行くかを決められますが、当時は先輩に美味しいものを食べさせてもらったりして、そういう繋がりの中で行き先を決めていた時代でしたね(笑)。

─ その後のポリクリでぶれることもなかったのですか。

子どもが好きだったので小児科も気になりましたし、産婦人科も気になっていました。これは産婦人科を回っているときにそこでも上の先生と仲良くなったからです。それも医学的に仲良くなったのではなく、麻雀などのお付き合いからです(笑)。それで「お前は産婦人科に来ないと駄目だ」ということになり、一時期は行きそうになっていました。最終的には小児科と迷いましたが、小児科は同学年から10人が入局すると聞き、大勢はいるところは避けたいと思い、脳神経外科に決めました。

脳神経外科で何をするのか、何をしたいのかというビジョンはそのときはなかったです。脳神経外科には毎年1人か2人しか入局しないのに、その年は6人も入りました。同期が多いことは良い面、悪い面が当然ありますが、ともかく脳神経外科医としての研修が始まりました。

─ 同期が多いことに悪い面もあるのですね。

良い面は切磋琢磨できることの一方で、悪い面は良い面にも被ることではありますが、人が多いと、皆が大学には残れないということです。私は卒業して、国試に受かって、5月から研修を始めましたが、4カ月だけ大学病院にいて、9月には外の病院に出されました。

─ どのような病院に行かれたのですか。

苫小牧に新しくできた関連病院で、医局の先輩が一人で勤務されているところに下の立場でぽっと出されたんです。そこは脳神経外科だけでなく、外科や整形外科もある病院でしたが、すぐに当直もするようになり、今からすればよくやっていたと思います。そのため、色々なことを早く覚えないといけないということで、カテーテル検査なども積極的にさせていただきました。勉強にはなりましたが、大変でしたね。

─ 指導医の先生と1対1での指導を受けられたのですか。

いえ。今のような研修システムがない時代ですので、1対1というよりも「勝手にやれ」という感じでした(笑)。中心静脈を入れるにしても、自分で勉強してやり始め、やりながら覚えました。今からすれば医療安全的にも考えられないですね。

─ その病院にどのぐらいいらっしゃったのですか。

半年です。また大学病院に戻り、半年後に外の病院に出ました。しばらくは半年ごとに大学病院と関連病院の勤務を繰り返していました。当時の教授は九州大学出身だったので、私も九州大学の神経内科で勉強させていただいたこともありました。それも半年間でしたし、引っ越しは大変でしたね。当時は文句も言わず、行けと言われたところに素直に行っていました(笑)。

上山博康先生に出会う

─ そして1996年に旭川赤十字病院に勤務されることになったのですね。

これも医局人事で、このときは2年間の勤務でした。ここで師匠となる上山博康先生に出会いました。赴任した当初、私は上山先生のことを何も知らなかったんです(笑)。上山先生は色々な意味で衝撃的な方でした。本当にパワフルで、家に帰らず、病院にいるみたいな方だったんです。急患があれば「全員集合」みたいな今では考えられないような働き方をしていました。

上山先生感謝の会にて

─ その中で先生も腕を磨かれたのですね。

ただ、当時は私と同じぐらいの年次の医師が北海道大学からも来ていましたので、最初から手術をどんどんさせてもらったということはありませんでした。そのほかにも色々な人がいますので、最初は見学が中心でした。それで、私は雑用的なことを率先して行うようにしました。

─ どのようなお仕事ですか。

当時は手術件数が非常に多く、VHSのビデオテープに全て手術動画を保存していました。普通の人からすれば上山先生の手術ビデオは財産です。そのビデオテープが何年も放置されて、物置部屋みたいなところに積み上がっていた状態になっていましたので、病院にお願いして、棚を作ってもらったんです。そして、動脈瘤や腫瘍の手術など、年代別に整理してまとめる作業をしました。その中で面白そうな動画があれば全部見て、自分でも勉強していました。そういうことをしているうちに少しずつ認められ、2年のうちの最後の半年間は手術もさせていただけるようになりました。

─ そして医局を辞められたのですね。

旭川赤十字病院に来て2年が終わる頃、ある先生が開業のため、退職されることになったんです。その先生は北大から上山先生と一緒に来て、上山先生のすぐ下のポジションで脳神経外科の色々なことを取り仕切っておられました。その下には私を含め、5、6人の医師がいたのですが、雑用的なことをしない人が多かったので、私としてはあと1年いれば症例も経験できるし、上山先生のお手伝いもできるので、旭川赤十字病院にいたいと教授にお伝えしました。

それまではずっと医局の人事に「嫌です」と言ったことはなかったのですが、そのときだけ初めて「あと1年だけ、日赤に置かせてください」とお願いに行ったんです。4月から新しい勤務が始まるので、3月の初めにお願いしたのですが、「そんな勝手なことは許さん」ということになりました。そのときは医局を辞める気はなかったですし、私としては旭川医大の医局を北大に負けないような医局にしたいという気持ちもあって「あと1年」と言ったのですが、それは認められないと言われたので、勢いで「それなら医局を辞めます」と言いました(笑)。