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記事・コラム 2026.05.26

プロフェッショナルインタビュー

第2回「治安の悪いところにある忙しい病院はアメリカの研修病院としては超人気なんです。」千葉西総合病院 院長  三角和雄

話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!

どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
情熱大陸

今回は【千葉西総合病院 院長】の三角和雄 先生のインタビューです!
テーマは 第2回「治安の悪いところにある忙しい病院はアメリカの研修病院としては超人気なんです。」をお話しいただきます。

プロフィール

名前
三角(みすみ) 和雄(かずお)
病院名
千葉西総合病院
所属
院長
資格
  • 米国内科学会専門医正会員
  • 米国心臓病学会専門医正会員
  • 日本内科学会専門医評議員
  • 日本循環器学会専門医日本循環器学会専門医
  • 日本心血管インターベンション治療学会心血管カテーテル治療専門医・施設代表医
  • 日本冠疾患学会評議員
  • 日本老年病学会専門医
  • 米国カリフォルニア州・ハワイ州医師免許など
経歴
  • 1957年に大阪府大阪市で生まれる。
  • 1982年に東京医科歯科大学(現 東京科学大学)を卒業、長尾優学術奨励賞(金時計)授与、すぐに東京医科歯科大学第三内科(現 東京科学大学循環器内科)に入局し、東京医科歯科大学医学部附属病院 (現 東京科学大学病院)に勤務する。
  • 1983年に横浜南共済病院に勤務する。
  • 1984年に東京医科歯科大学医学部附属病院に勤務する。
  • 1985年にイリノイ大学医学部シカゴ校に心臓血管病理の研究留学をする。
    その後、ニューヨーク医科大学リンカーン・メディカル&メンタルヘルスセンター内科レジデント、カリフォルニア大学ディヴィス校神経内科レジデント、ピッツバーグ大学メディカルセンター内科レジデント、カリフォルニア大学アーヴァイン校心臓内科クリニカル・フェローとして、研修を行う。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)グッド・サマリタン病院心臓内科で2年半のクリニカル・フェロー研修を行う。
  • 1996年にハワイ大学医学部内科(循環器部門)臨床系助教授に就任する。
  • 1998年に千葉西総合病院に心臓センター長、研修委員長として着任する。
  • 2000年に千葉西総合病院副院長に就任する。
  • 2003年から2017年まで東京医科歯科大学(現 東京科学大学)臨床教授を兼任する。
  • 2004年に千葉西総合病院病院長に就任する。
  • 2017年から2020年まで東京医科歯科大学(現 東京科学大学)特命教授を兼任する。

─ 第三内科に入られて、いかがでしたか。

臨床研修をしっかり行いました。当時は大学院に行く人も多く、研究ばかりの人もいましたが、私は臨床をしたかったので、臨床をしながら学位論文を書いて博士号を取れるような研究をせざるをえませんでした。私が興味を持っていたのは若い人の心臓の血管が詰まる冠動脈病変です。日本ではそういう研究はできなかったのですが、アメリカでは心臓の血管が詰まっている若い人が多く、シカゴのイリノイ大学にそういう機関があることを知りました。シカゴはギャングの街なので、銃で撃たれたり、ナイフで刺されたりして亡くなる人が大勢います。その機関はそういう人の心臓を調べるためのもので、私はとりあえずそこに行って、研究をしようと思いました。研究を一つするというのはデューティーですから、それを仕上げて学位論文にしたんです。デューティーだけはやって、それから臨床に行くつもりでした。そして学位論文を仕上げたあとも帰国せず、ニューヨークを皮切りに臨床の現場に行って、専門医資格を取っていきました。

─ ニューヨーク医科大学関連のニューヨーク市立病院を最初の臨床の研修先に選んだのはどうしてですか。

めちゃめちゃ患者が多くて忙しかったからです。ニューヨーク医科大学関連のリンカーン・メディカル&メンタルヘルスセンターは当時、救急の搬送件数が全米第4位でした。しかもブロンクスという治安が悪いところにあります。治安の悪いところにある忙しい病院はアメリカの研修病院としては超人気なんです。色々な症例を経験できるからです。本当に凄まじかったですね。まず英語が通じる人が少ないです。プエルトリコからの移民が多い貧民街ですので、ほぼスペイン語なんです。病院はめちゃめちゃ立派なのですが、来ている患者さんは「ちょっと、これはマズいんじゃないか」という方が一杯いました。でも症例の宝庫でしたね。なかなか診られない疾患が多くあり、いい経験ができましたし、頭も身体も素早く反応するようになりました。今もそうですが、どんな疾患が来ても自然と身体が動き、ぱっぱっぱっと反応するようになりました。こういうトレーニングは若い頃にしかできませんでしたので、この病院で研修できたことは大きかったです。どんな救急が来ても、とりあえず対処できる自信がつきました。

─ ニューヨークで思い出に残っていることはどういったことですか。

救急室に行くと、ニューヨーク市警の警察官が何人もいるんですよ。私1人に警察官が2人もつくような感じで、大変だと思っていたところに患者さんが来て、「通りで買ったコカインが100%じゃないんだ。どうしてくれる」と言われました。私が「どうしてくれると言われても」と言いかけていると、その患者さんを警察官が「ちょっと来い」とどこかに連れていきました。それから受付で「煙草の火を貸してくれ」と頼んできた人がいました。「ここは禁煙ですよ」と断ったら、「じゃ帰る」と言って、私に背中を向けたのですが、その背中にナイフが刺さっていました。アフリカからの移民の患者さんが教科書でしか見たことのないような病気だったこともありますし、日本ではお目にかからないような病気も多く診ました。

─ そういう病院で研修を開始されたのですね。

アメリカで有名なハーバード大学には付属病院がなく、スタンフォード大学には付属病院がありますが、特殊な疾患のある富裕層しか来ません。胃潰瘍や喘息、ヘルニアのようなコモンディジーズは高級な私立大学病院に来ないんですよ。ですからアメリカの医学生は研修先として、全国津々浦々、忙しい病院を選びます。一つ例をとると、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の卒業生は付属病院の本院には行かず、分院であるハーバーUCLA群立病院のほうに行きます。そこは小さな病院ですが、全米第3位ぐらいの人気があります。アメリカ人は非常にドライなので、臨床研修をするのであれば、症例をできるだけ経験できる病院をまず選びます。そして、アメリカには基本的に医局というものがないので、自分のために全国どこでも動いていきます。日本のように、卒業した大学の医局に残り、そこの付属病院で研修するのではなく、自分が上に行くためにいい病院を探していくという発想があります。卒業後すぐに東から西から、プログラムを終わるたびに次々に移動していきます。私もそれが分かったので、ニューヨークで最も忙しい病院を選びました。ここに1年いれば、ほかの病院の3年から5年分だと思ったんです。そして、ほかのことも習いたくなったので、次の病院に移りました。

─ それでカリフォルニア大学やピッツバーグ大学の病院に移られたのですね。

アメリカでは内科を全部、学んでおかないと循環器を全部することはできないし、循環器を全部、学んでおかないとカテーテルをできないというピラミッド方式になっています。そこで、私はカリフォルニア大学で神経内科、ピッツバーグ大学で今後の基礎となる一般内科を学び、アメリカの専門医試験の中で最難関と言われている内科専門医の資格を取得しました。このように一つ一つの土台を積み重ねないと、カテーテル治療まで行けないんですね。そして、1991年にカリフォルニア大学アーヴァイン校で循環器臨床フェローを開始しました。さらに西海岸で最もカテーテル治療件数の多いロサンゼルスのグッド・サマリタン病院で心血管インターベンション専門のフェロー研修を2年半、行いました。日本であれば「カテーテル治療をやりたいです」「カテーテルの専門家になりたいです」と言って努力すれば、大体の人ができますし、なれます。ところがアメリカはそんなことはありません。「カテーテルの専門家になりたい」という循環器内科医が100人いれば、選抜されてなれるのは10分の1です。定員もありますから、なれる数が少ないんですよ。そのため、カテーテルの専門家は人気のある職業なんです。

─ なぜ人気があるのでしょうか。

稼げるからです。ほかに内視鏡ができる消化器内科医も人気があります。こちらも開業すると儲かりますし、稼げます。アメリカ人、特にユダヤ系の人はそうですが、教育レベルが非常に高い人が学校で勉強して良い学校に入り、資格を取って稼ぐことは美徳なのです。その代わり、寄付もします。とても分かりやすいんです。アメリカには勤務医のみという人もいますが、開業医のほうが地位が高いんです。日本では「町医者」という開業医を下に見るような言葉もありますが、アメリカは逆です。アメリカでは自信があるから開業するんですね。

─ 循環器科で開業するのは難しいのではないですか。

日本ではどこかの病院に所属し、フルタイムスタッフでないとカテーテルができませんが、アメリカでは開業医が病院と契約して、その病院に自分の患者さんを連れてきてカテーテルをします。そうやってお金を稼ぐオープンシステムになっています。自分のオフィスで外来の患者さんを診て、「あなたは狭心症ですね。午後にカテーテルしましょう」と病院に連れていきます。私がカテーテルの研修をしたのはグッド・サマリタン病院ですが、その研修を修了するときに、看護師さんが「Dr.ミスミ、どこで開業するの。もし開業するなら、私を雇って。給料はこのぐらいでいいから」みたいに、次々に話しかけてきました。アメリカでは開業することが当たり前で、日本のようにスタッフとして、その病院にずっと残って給料をもらうという人は少ないです。大学の教授もほとんどが開業医で、開業医としても、大学の教員としてもお金をもらっています。そういうシステムなのですが、それはアメリカに行った人でないと分かりにくいでしょう。

─ アメリカではどのような臨床研修プログラムだったのですか。

例えば、今月は心エコー、来月は心臓カテーテル、その次の就きはCCUのレジデント教育と診療といったように、1カ月ごとに集中して一つ一つの手技を身につけていきます。心エコーでは1カ月で約700件を読影、心臓カテーテルは120件から150件を行うのが普通でしたので、日本の数十倍から数百倍の患者さんを診られました。私は自らが行ったカテーテル治療の全てをノートに記録しました。そうやって書き溜めたノートは13冊に上り、今も院長室に大切に保管しています。

─ アメリカでとても充実した研修を受けてこられたのですね。

アメリカでは皆が聖人君子というわけではありません。でもYesやNoをはっきり言える毅然とした態度が取れれば問題ないのです。実力のほかに精神力も必要です。指導医の中には「有色人種が嫌いだ」「外国人には高い評価をつけない」と言う人もいましたが、そうした理不尽な対応に負けないように、実力をつけて結果を出そうと思いました。私を毛嫌いしていた上司が5点満点で6点の評価をくれたこともあります。アメリカは人種差別の国でもありますが、機会均等の国でもあると実感しました。

─ 1998年に千葉西総合病院に勤務されるまで、アメリカに13年もいらしたのですね。

アメリカ本土での研修を終えたあとはハワイに移りました。ハワイを選んだのは日本に近かったからです。母が闘病中だったこともあり、飛行機の直行便ですぐに帰れるハワイにしました。そしてホノルルで心臓カテーテル治療を専門とする循環器のクリニックを開業し、同時にハワイ大学の臨床系助教授も務めていました。ハワイ大学には付属病院がないので、ハワイ州にある3つの私立病院で医学生やレジデントの教育、研修を行っています。私もこれらの病院とそれぞれ契約し、自分の患者さんを入院させて治療をしながら、医学部の高学年の学生やレジデントの教育、研修を行っていました。その生活が3年目を迎える頃になると、「日本に帰ってこないか」という声が届くようになってきたんです。やはり私は日本人ですし、幼稚園から大学まで国立で日本の税金で医師になったわけだから、日本に帰ってこようと決めました。アメリカに残っていてもいいのですが、一開業医、一医師として仕事をしつつ、アカデミックな仕事も少ししたとしても、そういう人は大勢います。であれば、鶏口牛後ではないですが、日本で働こうと思いました。そのときの家族も日本に帰ることを望んでいました。当時、アメリカの学校では発砲事件も日常茶飯事で、学校に金属探知機もあったりして、荒れていたんです。今も乱射事件が起きたりしていますしね。それで「これだけやったからいいか、潮どきかな」と考え、帰国することにしました。