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記事・コラム 2026.06.23

プロフェッショナルインタビュー

第2回「2時間も3時間も犬を抱っこするということを365日続けました(笑)」東京女子医科大学病院 高血圧・内分泌内科 市原 淳弘先生

話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!

どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
主治医が見つかる診療所、林修の今知りたいでしょ!、など

今回は【東京女子医科大学病院 高血圧・内分泌内科】の市原 淳弘先生のインタビューです!

テーマは 第2回「2時間も3時間も犬を抱っこするということを365日続けました(笑)」をお話しいただきます。

プロフィール

名前
市原(いちはら)淳弘(あつひろ)
病院名
東京女子医科大学
所属
高血圧・内分泌内科
資格
  • 日本内科学会専門医、指導医
  • 日本高血圧学会理事、評議員、特別正会員、専門医、指導医
  • 日本内分泌学会評議員、専門医、指導医
  • 日本心血管内分泌代謝学会理事、評議員
  • 日本動脈硬化学会評議員、専門医、指導医
  • 日本妊娠高血圧学会監事(前理事長)
  • 日本腎臓学会学術評議員、専門医、指導医
  • 米国心臓学会高血圧部門評議員
  • 日本透析医学会専門医など。

日本循環器学会、日本糖尿病学会、日本抗加齢医学会、日本神経内分泌学会、日本甲状腺学会、米国内分泌学会、欧州内分泌学会、国際高血圧学会、米国生理学会にも所属している。

経歴
  • 1961年に愛知県名古屋市で生まれる。
  • 1986年に慶應義塾大学を卒業後、慶應義塾大学病院内科で研修医となり、大田原赤十字病院(現 那須赤十字病院)などに勤務する。
  • 1990年に慶應義塾大学内科学教室に入局し、慶應義塾大学病院に勤務する。
  • 1995年に米国Tulane大学に留学する。
  • 1998年に帰国し、川崎市立井田病院に勤務する。
  • 2001年に慶應義塾大学腎臓内分泌代謝内科助手に就任する。
  • 2007年に慶應義塾大学抗加齢内分泌学講座講師に就任する。
  • 2009年に慶應義塾大学抗加齢内分泌学講座准教授に就任する。
  • 2011年に東京女子医科大学内科学(第二)講座主任教授に就任する。
  • 2018年に東京女子医科大学内分泌内科学講座教授・講座主任に名称変更となる。
  • 2025年に東京女子医科大学内科学講座液性病態制御内科学分野教授・基幹分野長に名称変更となり、東京女子医科大学病院副院長 兼 卒後臨床研修センター長に就任する。
  • 2026年に東京女子医科大学高血圧・内分泌内科 特任教授 兼 病院長補佐に就任する。

─ 先生が医師を目指したきっかけをお聞かせください。

私は病気がちと言いますか、風邪をよく引いていた子どもだったんです。ある年齢で扁桃腺の手術をしてからは健康になったのですが、小さい頃は頻繁に喉を腫らしては近所の内科の開業医の先生のところに行っていました。そのときに先生が私の口の中を覗いたり、心臓の音を聴診器で聞いたりしつつ、私も注射を打たれたり、お薬をもらったりしていました。そのうちに患者の側として、「この先生は喉の奥の一体、何を見ているんだろう」「心臓に聴診器を当てて、どんな音を聞いているんだろう」ということに興味を持つようになりました。そして、いつかこの謎を解いてみたいと思ったのが医師を目指した最初のきっかけです。小学生の頃ですね。

─ その興味が高校生になっても続いていたのですね。

当時は医師というのは人気のある職業の一つではありましたし、社会的にも貢献できる職業の代表的なものの一つでもありましたから、子どもの頃の延長線上ではありましたが、私ができる職業として、一つの道なのではないかと思い、医学部を受験しました。

─ 大学時代の思い出をお聞かせください。

私が慶應義塾大学に入った年に医学部のラグビー部ができたんです。本学のほうのラグビー部は全国的にも有名ですが、医学部のラグビー部はできたばかりでした。医学部のラグビーは関東医歯薬ラグビーリーグに所属していましたが、当時は6部制でした。できたばかりなので、6部からのスタートとなりましたが、そこから皆で努力して、4部にまで上がっていきました。そして、ちょうど3部に上がるところで卒業したんです。ラグビー部では大勢の仲間ができ、非常に楽しい時間を過ごさせてもらったなと思っています。

─ 高校でもラグビーをされていたのですか。

高校ではハンドボール部に入っていました。ハンドボールもどちらかと言うと、身体がぶつかり合うような格闘技系のスポーツなので、そういう要素が入ったスポーツのほうが私の好みに合うのではないかということで、誘われたこともあり、大学でラグビーを始めました。本学のラグビー部にはとてもとても入れないですが、医学部のラグビーだったらやれるのではと思ったんです。それに高校の体育の授業でラグビーをしたときに割と活躍できたという、いい思い出もありました(笑)。

─ ラグビーでのポジションはどちらでしたか。

9番のスクラムハーフです。私は身体のサイズが小さいほうなのですが、スクラムハーフはラグビーの中では身体が小さくてもできるポジションなんです。アメフトで言うところのクオーターバック的な要素もあり、コントロールタワー的に頭も使うポジションであることも魅力でした。

会話の写真

専門を内分泌内科に決められたのは何年生のときですか。

─ 専門を内分泌内科に決められたのは何年生のときですか。

内分泌内科に決めたのは医師になったあと、卒後4年目の終わりの時期です。慶應のシステムはとにかくまずは内科に入り、慶應義塾大学病院で全ての内科の診療科を2年間かけてローテートして、それが終わると2年間、外部の病院に出されるんです。そして、外部の病院から戻ってくるときに専門の科を決めて医局に入るので、私の場合はそこで腎臓内分泌代謝内科を選びました。

─ では内科に決められたのはどうしてですか。

大学生のときは内科のほか、外科や産婦人科にも興味がありました。その中で内科に決めたのは頭で色々なことを考えないといけない科であることに惹かれたからです。人間の身体がいかに調節され、病気によって、どう変化していくのかを知りたかったんですね。それに小さい頃に開業医の先生のところで「先生は口の中の何を見ているんだろう」「聴診器で何の音を聞いているんだろう」という興味を持った延長線上にあったのが内科だったという感じで決めました。

─ 研修はいかがでしたか。

慶應義塾大学病院で消化器、循環器、呼吸器、神経、リウマチ、腎臓内分泌代謝などの全ての内科を2年間かけてローテートし、その後、外部の病院に出て、自分であらゆる分野の診療ができるようになりました。

─ どちらの病院に行かれたのですか。

栃木県の大田原赤十字病院に2年間、行きました。今は那須赤十字病院という名前になっている病院ですね。その地域は住んでいる方々が非常に温かく、「お医者さん」という感じでリスペクトしていただき、とても楽しい2年間でした。私はまだ医師になって3年目、4年目の若造でしたが、色々な患者さんを診て、自分の意志で判断して、診断して、治療していくことを学びました。大学病院にいるとどうしても上の先生の指導のもとでとなりますが、大田原赤十字病院では多くの経験を積むことができました。

─ 大田原赤十字病院では一般内科医でいらしたんですよね。

そうです。胃カメラもお腹のエコーも全てやっていました。あらゆる内科の診療科のあらゆる手技はそこでやりましたので、今でも胃カメラをやれと言われたら、何とかできますよ(笑)。実際はやりませんけれど。

専門を内分泌内科に決める

─ 卒後5年目に慶應義塾大学病院に戻られ、腎臓内分泌代謝内科に入局されたのですね。腎臓内分泌代謝内科に決められた理由をお聞かせください。

最初に慶應義塾大学病院で2年間の研修をしていたときに受け持ったのがバーター症候群の患者さんでした。バーター症候群は現在は腎臓の尿細管異常が原因だと分かってきたのですが、当時は内分泌疾患だと言われていました。この病気では低カリウム血症という症状を呈するのですが、その原因はレニン・アンジオテンシン系というホルモン系が亢進することです。一つの病気の中にホルモンの変化が潜んでおり、それが症状として現れてくる病気の最たるものだったんですね。このレニン・アンジオテンシン系の第一人者と当時、言われていたのが猿田享男先生で、慶應義塾大学の腎臓内分泌代謝代謝内科を主宰されていた教授でいらっしゃいました。私が興味を持ったレニン・アンジオテンシン系の大家が非常に近いところにおられるのだということで、猿田先生の門を叩きました。

─ 猿田先生の門を叩いてすぐはどういった日々でしたか。

指導医の先生について、診療、教育、研究をやっていくわけですが、やはり大変な日々でした。下働き的な部分も多く、いつになったら自分のオリジナルの研究を始められるのだろうと思っていました。最初は「犬グループ」というところに入れられたんですよ。実験動物の犬を使って研究するグループなのですが、私が最初の1年間で何をしたのかと言うと、犬を抱っこして、横にしてずっと寝かし続けるということです。犬が立ったり、座ったりなど、体位が変わるとホルモンの値も変わるので、2時間も3時間も犬を抱っこするということを365日続けました(笑)。上の先生の研究のためとは言え、私は何をしにこの医局に入ったのだろうと考えてしまいましたね。そのうちに猿田先生から「レニンの前駆体であるプロレニンというものがあるけど、これは面白そうだから研究してみたら」と言われたんです。

─ 先生オリジナルの研究が始まったのですね。

ただ、それも何だかなという気持ちでした(笑)。当時、レニン・アンジオテンシン系の中のアンジオテンシンII受容体が見つかったことを受け、アンジオテンシンII受容体拮抗薬ARBという降圧薬が新しく発売されたのです。内分泌の先生方は皆さんがそこに注目し、猫も杓子もアンジオテンシンII受容体の研究を始めていたのに、なぜ私は上流のレニンという、ちょっと古めかしいことをやらされるのだと思いましたが、「ま、これも何かの縁だろう」と特に逆らうことなく、「分かりました」と言って研究を始めたんです(笑)。

─ そんな経緯があったのですね。

それから10年ぐらい経ち、私が留学から帰ってきたときには気がつけばレニンの研究をしている人は日本では私ぐらいになっていました。それで希少価値が出てきたこと、レニン阻害薬という新しい降圧薬が出てきたこと、レニンの前駆体であるプロレニンの関連で、その受容体が発見され、実はプロレニンそのものが前駆体であるにもかかわらず、ホルモンであったことが分かってきたことで、新しい発見もそこに加わってきたんです。そういう意味では最初は「嫌だな、何でこんなことをやらされるのだろう」と思っていたことが実は瓢箪から駒だったんですね。レニンを研究したことが私をその分野の日本で唯一の研究者にしてくれたことになり、新しいことも発見できたしということで、結果としては良かったです。

─ 入局して留学されるまではずっと慶應義塾大学病院にいらしたのですか。

そうです。ただ、留学が決まったあとの数カ月間は「どうせアメリカに行くんだから」ということで、関連病院に手伝いに行かされたりもしましたが(笑)、形としては慶應からアメリカに行きました。

慶應研究室の弟子たちと共に