話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!
どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。
【出演番組一部抜粋】
主治医が見つかる診療所、林修の今知りたいでしょ!、など
今回は【東京女子医科大学病院 高血圧・内分泌内科】の市原 淳弘先生のインタビューです!
テーマは 第3回「先輩がテュレーン大学のL.Gabriel Navar教授に手紙を書いてくださったんです」をお話しいただきます。
目次
プロフィール
- 名前
- 市原(いちはら)淳弘(あつひろ)
- 病院名
- 東京女子医科大学
- 所属
- 高血圧・内分泌内科
- 資格
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- 日本内科学会評議員、専門医、指導医
- 日本高血圧学会理事、評議員、特別正会員、専門医、指導医
- 日本内分泌学会評議員、関東甲信越支部幹事、専門医、指導医
- 日本心血管内分泌代謝学会理事、評議員
- 日本動脈硬化学会評議員、専門医、指導医
- 日本妊娠高血圧学会理事長
- 日本母性内科学会理事
- 日本腎臓学会学術評議員、専門医、指導医
- 米国心臓学会高血圧部門評議員
- 日本臨床分子医学会監事、評議員
- 日本透析医学会専門医など。
日本循環器学会、日本糖尿病学会、日本抗加齢医学会、日本神経内分泌学会、日本甲状腺学会、日本血管生物医学会、米国内分泌学会、欧州内分泌学会、国際高血圧学会、米国生理学会にも所属している。
- 経歴
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- 1961年に愛知県名古屋市で生まれる。
- 1986年に慶應義塾大学を卒業後、慶應義塾大学病院内科で研修医となり、大田原赤十字病院(現 那須赤十字病院)などに勤務する。
- 1990年に慶應義塾大学腎臓内科教室に入局し、慶應義塾大学病院に勤務する。
- 1995年に米国Tulane大学に留学する。
- 1997年に米国Tulane大学の講師に就任する。
- 1998年に帰国し、川崎市立井田病院、慶應義塾大学病院などに勤務する。
- 2001年に慶應義塾大学腎臓内分泌代謝内科助手に就任する。
- 2007年に慶應義塾大学抗加齢内分泌学講座講師に就任する。
- 2009年に慶應義塾大学抗加齢内分泌学講座准教授に就任する。
- 2011年に東京女子医科大学内科学(第二)講座主任教授に就任する。
- 2015年に東京女子医科大学内科学(第二)講座教授・講座主任に名称変更となる。
- 2018年に東京女子医科大学内分泌内科学講座に講座名変更となり、教授・講座主任となる。
- 2025年に東京女子医科大学内科学講座液性病態制御内科学分野教授・基幹分野長に名称変更となり、東京女子医科大学病院副院長 兼 卒後臨床研修センター長に就任する。
- 2026年に東京女子医科大学高血圧・内分泌内科 特任教授 兼 病院長補佐に就任する。
─ 留学先をテュレーン大学にされたのはどうしてですか。
学生の頃から異国の文化に触れてみたいという気持ちがあり、留学したいと思っていました。テュレーン大学に決めたのはそこに留学されていた先輩がおられたからです。先輩は既に日本に戻ってきておられて、そのときは慶應からテュレーン大学には誰も行っていなかったのですが、私が留学したいという思いをその先輩に伝えたところ、先輩がテュレーン大学のL.Gabriel Navar教授に手紙を書いてくださったんです。Navar教授はメキシコ系アメリカ人で、陽気な方なのですが、「いいよ」と引き受けてくださることになり、Navar教授のもとに留学させていただくことになりました。
─ 留学先ではどのような研究をなさったのですか。
Navar教授が尿細管糸球体フィードバック機構という腎臓生理の研究をされていたので、留学期間中はその研究を主にやっていました。その頃、同じテュレーン大学に日本人の有村章教授がいらっしゃり、性腺刺激ホルモンのLHRHという受容体の研究をされていました。これは世界でも特筆すべき研究でした。私もときどき有村教授の教室の宴会に参加させていただいたりしながら、内分泌系についての研究も続けてはいました。
─ テュレーン大学ではリサーチフェロー最優秀研究賞を受賞されています。
これは一酸化窒素が人体の正常な働きをどのように維持しているのかについての研究です。一酸化窒素は主に血管の内皮細胞から産生される液性因子で、その頃、生体内でシグナル伝達物質として働くという生物学的機能が発見されたのです。その発見者であるロバート・F・ファーチゴット、ルイス・J・イグナロ、フェリド・ムラドの3人の先生方は1998年のノーベル医学・生理学賞を受賞されましたので、当時の流行に乗れたことで、私も受賞できたのかもしれません。
─ テュレーン大学の講師にもなられたんですよね。
そうですね。留学して2年経ったときに客員講師になりました。Nabar教授が「その身分では給料を上げることができない。こちらにも慣れてきたし、よく頑張っているから」とおっしゃり、そういうポジションを与えてくださって、給料も上げてくださったんです。
─ 研究も進みましたか。
テュレーン大学には結局3年いたのですが、最初の半年間は全く結果が出ませんでした。そのあとからは結果が次々に出るようになり、3年間で約10本の論文を書きました。それでNabar教授の教室では「すごく頑張っている人だ」と重宝がられましたね。アメリカ人はあまり仕事をしないイメージがありますが、アメリカ人でも教授ともなるとものすごく仕事をします。Nabar教授も朝は誰よりも早く来て、夜は誰よりも遅くまでいて、仕事をされていました。アメリカ人はいい加減に仕事をして、マイライフを楽しんでいるような人たちだと思っていましたが、トップに立つようなアメリカ人はこれだけハードに働くのだということを垣間見たことで、私もNabar教授よりも働いてやるぞという意気込みで働いていました。
─ テュレーン大学はニューオーリンズにあるのですね。
そうなんです。ニューオーリンズはアメリカの中でも観光地で、アメリカ人が遊びに来るような街です。私と同時期にアメリカに留学していた同級生は全員、ニューオーリンズに遊びに来ました(笑)。
帰国する
─ 1998年に帰国されてからはどういうお仕事をされていたのですか。
慶應の医局のルールとして、留学から戻ったらお礼奉公的な意味も含めて、慶應義塾大学病院に直接戻るのではなく、関連病院で一定の期間、勤務するということになっていました。私は川崎市立井田病院に行くことになり、3年ほど勤務しました。昼は井田病院で働き、夜は慶應の研究室に行って、研究していたんです。それを教授でいらした猿田享男先生が見ておられ、「じゃあ大学に戻してやろう」ということになり、大学に戻ってきました。
─ 2001年に大学に戻られたのですね。
大学に戻ってからは診療、教育、研究の全てをやりました。診療では病棟のチーフにもなりましたし、教育では学生への講義も担当していました。ただ、メインは研究でしたね。かつての私がそうだったように、下の先生たちが学位を取るための研究をするのですが、その指導が主な仕事でした。その結果、当時の私の部下たちは全員、科研費を取ることができましたし、そのうち2人が学振を取ることもできました。
─ 狭き門なのに、すごいですね。
そこはそういう意味での研究と研究教育に力を入れた結果ですね。その時代の私のメインの仕事でした。
─ 妊娠高血圧症候群もその頃に力を入れておられた疾患ですか。
その頃、国立成育医療研究センターから「誰か、派遣してほしい」という依頼があったんです。でも私にしても、私の研究グループの部下たちにしても、国立成育医療研究センターにどっぷり赴任するわけにはいかないと伝えたところ、「週に1コマでもいいから、外来をお願いしたい」と言われました。それで私が研究グループの部下たちに「誰か、行きたい人いる?」と聞いたら、誰も手を上げないんです。それで私がダチョウ倶楽部のコントのように「じゃあ私が」と行くことになりました(笑)。そういうきっかけで、その頃から妊娠高血圧症候群をはじめ、妊産婦の糖尿病や甲状腺疾患の臨床や研究を始めました。そして週1コマの外来を担当するにあたり、一番の若手であった部下に「君もついてきなさい」と声をかけたんです。私としては私のそばについて、私が外来でどういうことをするのかを見学させたいと思ったんですね。その若手は週に1回、嫌々ついてきていたのですが、それが今や妊娠高血圧症候群で有名な三戸麻子医師です(笑)。三戸先生は現在、国立成育医療研究センターのプレコンセプションケアセンターや女性総合診療センター女性内科の医長を務めています。