記事・コラム 2023.12.05

中国よもやま話

【2023年12月5日】情報の真偽をめぐる混乱と論争~昔も今も中国は“遠い国”

講師 千原 靖弘

内藤証券投資調査部

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい

モンゴル人の元王朝が中国を支配していた13世紀に、この地を旅したマルコ・ポーロの東洋に関する知見は、「東方見聞録」という書物にまとめられ、欧州各地に伝わった。

ラテン語版の「東方見聞録」
余白にコロンブスのメモ

「東方見聞録」が伝えた中国の姿は、当時の欧州人には信じられないほど強大であり、その信憑性を多くの人々が疑ったが、一方で信じる者もいた。新大陸を発見したクリストファー・コロンブスは、この書物を熱心に読み、そこに数多くのメモ書きを残している。

「東方見聞録」は事実に基づく話も多いのだが、その正しい情報が原因で、中国に対する欧州人の認識が混乱したことがあった。

中国は北緯33度付近の秦嶺山脈と淮河を東西に結ぶ「秦嶺・淮河線」を境に自然環境が大きく異なり、北部と南部に分かれる。漢民族も小麦食の「北方人」と米食の「南方人」に分かれ、言語や文化がかなり違う。

この線は中国の統一王朝が分裂する際の分断線でもあった。西暦979年に中国を統一した宋王朝は、1127年に北方の女真人に攻め込まれ、長江の南に遷都。その統治領域は、「秦嶺・淮河線」の南側だけとなった。中国の北側は、女真人の金王朝が支配した。

1142年の中国
秦嶺・淮河線を境に、北部が金王朝(黄色)
南部が宋(南宋)王朝(赤色)
どちらもモンゴル帝国に征服された

この中国の分裂は、モンゴル人が北部の金王朝と南部の宋王朝を征服したことで終結。その最中にマルコ・ポーロが中国を訪れた。

モンゴル人の元王朝は、漢民族を南北で区別し、分割統治した。金王朝の支配下にあった北方人を“漢人”、宋王朝の統治下にあった南方人を“南人”に分類。南人は元王朝への抵抗を続けたことから、“野蛮人”と蔑まれた。

食事をする契丹人の姿
遊牧民の髪型が特徴
内モンゴル自治区赤峰市の墓に残る壁画

マルコ・ポーロが欧州に伝えた情報も、元王朝の政策を背景に、中国を北部と南部に分けていた。マルコ・ポーロはモンゴル人の元王朝が支配する中国について、漢人が住む北部を「カタイ国」、南人が暮らす南部を「マンジ国」と呼び、二つの国のように紹介した。

「カンバリク」(現在の北京市)を首都とする「カタイ国」の国名は、イスラム圏で中国を意味した「キタイ」という言葉に由来。この“キタイ”とは中国の北辺を支配していた契丹人(キタイ)にちなむ言葉だ。英語で中国を意味する「キャセイ」の語源でもある。

一方、「キンザイ」(現在の浙江省杭州市)を首都とする「マンジ国」の国名は、中国語の「蛮子」に由来。これは野蛮人という意味であり、元王朝の中国支配を反映している。

大航海時代が到来すると、ポルトガル人が16世紀に中国南部に到達。彼らは中国の南北を統一していた明王朝を「東方見聞録」の「マンジ国」と認識し、これとは別に「カタイ国」があると考えた。「メルカトル図法」で有名なゲラルドゥス・メルカトルも同様で、「中国」と「カタイ国」を地図に併記した。

メルカトル作成のアジア地図(1595年)
右側の緑の線で囲まれた部分が中国
北東にカタイ王国の表記がある

「中国とカタイ国が、実は同じ国」と最初に指摘したのは、16世紀末に中国を訪れたイエズス会のマテオ・リッチ。だが、すぐには信じられず、大きな論争に発展。欧州の地図から中国の北にある「カタイ国」が消えるまでに、長い年月を要した。中国情報の真偽をめぐる論争は、現代でも西側諸国で起きたりする。昔も今も中国は“遠い国”のようだ。

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