記事・コラム 2023.10.20

中国よもやま話

【2023年10月20日】中国南北相違の原点~東アジアで異色な中国北部の小麦食

講師 千原 靖弘

内藤証券投資調査部

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい

中国は北緯33度付近の秦嶺山脈と淮河を東西に結ぶ「秦嶺・淮河線」で南北に分かれる。中国の北部と南部は、社会の有様が異なるが、その背景に農業と主食の違いがある。

地図の赤い線が「秦嶺・淮河線」
この線を境に中国は南部と北部に分かれる
自然環境が異なることから、中国文化も南北で相異

「秦嶺・淮河線」は年間降水量800ミリ等量線であり、1月平均気温の等温線でもある。これを境に、中国の農業は北部の畑作小麦地帯と南部の水田稲作地帯に分かれる。主食も北部が小麦、南部が米という違いがある。

小麦が主食の中国北部は、麺料理が中心の食文化だ。中国の麺料理とは、“小麦を使った食品全般”を意味し、“ヌードル”ではない「中華まん」や「ギョウザ」なども含む。

このように小麦が中心という中国北部の食文化は、米を主食とする日本と大きく異なる。麺料理の概念も日本と違う。

浙江省余杭市の河姆渡遺跡で発見された炭化した稲
紀元前5000~4500年ごろの遺物と推定
人類最古の水稲栽培の証拠

朝鮮半島は日本よりも中国北部に地理的に近いのだが、その主食は米が中心であり、小麦を使った食品は少ない。中国北部の麦作文化は、東アジアでは特異な存在と言える。

東アジアで一般的な稲作文化の歴史を遡ると、水稲栽培で生産する米は、中国南部の長江流域から、先史時代の朝鮮半島や日本列島に伝わったとみられる。米は水田で栽培される水稲が一般的だが、実は畑で育てることも可能。こうした米を陸稲(おかぼ)という。

世界の稲作地域(緑色)
色が濃いほど、同一面積あたりの収穫量が多い

水田の整備は手間が必要だが、同一面積からの収穫量は、水稲が陸稲の二倍以上となる。また、水田は流水によって養分が運ばれるので、畑作のように“土地が痩せる”という「連作障害」が起きず、メリットが大きい。そのため、米の生産は水稲栽培が一般的だ。

稲作が伝来する以前の朝鮮半島や日本列島では、アワ(粟)やヒエ(稗)を主食としていたが、やがて米に取って代わられた。

世界の人口密度
色が特に濃い地域は、稲作地域と一致する

その主な理由は生産効率。同一面積からの収穫量は、水稲がアワやヒエを上回り、小麦すら超える。世界的に見ても、水稲栽培の地域は人口が多い。その背景には、効率的な水稲栽培が、人口増を支えたことがある。

だが、黄河文明の中心地である中国北部は、水稲栽培に適しておらず、アワが主食だった。一説によると、中国北部の人々はアワこそが文明の食べ物と考え、中国南部で水稲栽培される米を“蛮族の食べ物”と見なしたという。

アワが主食という中国北部の状況は、唐王朝の時代まで続いた。小麦は先史時代に西アジアから中国に伝来していたようだが、まったく普及しなかった。小麦を製粉せずに、そのまま煮炊きした味が不人気だったようだ。製粉には石臼が必要だが、それは高価な品であり、これも普及の妨げになったとみられる。

小麦が主食として中国北部に普及したのは、西暦千年ごろの宋王朝の時代。悠久の中国史からみれば、比較的最近の出来事だった。言い換えれば、小麦の普及に数千年を要した。

小麦の普及により、さまざまな麺料理が中国に誕生した。しかし、当初は麺料理について、中国南部の人々は毒性があると信じ、その後も米食中心の食生活を続けたという。

遼王朝(916~1125年)時代の墓に描かれた壁画
内モンゴル自治区赤峰市バイリン左旗で出土
マントウなどの麺料理が描かれている
当時の中国主要部は宋王朝だった

こうして中国の食文化は、小麦食の北部と米食の南部に分かれた。それは今日の中国社会における様々な南北相違の原点でもある。

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