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記事・コラム 2026.09.29

プロフェッショナルインタビュー

第4回「カンボジアで病院を立ち上げる。」国際医療NGOジャパンハート副理事長 感染症内科・総合診療科 神白 麻衣子先生

話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!

どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
国際報道番組「キャッチ!世界のトップニュース」

【ジャパンハート 主なメディア出演】
情熱大陸、グッと!地球便、カンブリア宮殿、世界を変える100人の日本人!など。

今回は【国際医療NGOジャパンハート副理事長 感染症内科・総合診療科】の神白 麻衣子 先生のインタビューです!
テーマは 第4回「カンボジアで病院を立ち上げる。」をお話しいただきます。

プロフィール

名前
神白(こうじろ) 麻衣子(まいこ)
病院名
ジャパンハート医療センター(カンボジア)、
ジャパンハートアジア小児医療センター(カンボジア)
所属
国際医療NGOジャパンハート
所属学会
日本内科学会
日本感染症学会
日本プライマリケア連合学会
資格
  • 内科学会認定医
  • 内科学会総合内科専門医
  • プライマリケア認定医
  • 感染症学会専門医
  • 厚生労働省認定臨床研修指導医
経歴
  • 1974年東京都東久留米市で生まれる。
  • 1999年千葉大学医学部を卒業する。
  • 2007年沖縄県で地域医療に従事する。
    その後ジャパンハートのボランティア医師として「ミャンマー・カンボジア」の活動に参加する。
  • 2009年タイ マヒドン大学熱帯医学ディプロマコース(6ヶ月)を修了する。
  • 2010年長崎大学病院熱研内科に所属し、熱帯医学・感染症・呼吸器診療、医学生・研修医教育に従事する。
  • 2011年5月にジャパンハートの理事に就任する。
  • 2016年5月にジャパンハートがカンボジアに設立した病院で長期ボランティア・スタッフ医師として活動する。
  • 2018年ジャパンハートこども医療センター院長(現ジャパンハート医療センター)に就任する。

※カンボジア病院事業責任者を兼任する。

─ 2016年にジャパンハートがカンボジア病院を立ち上げましたよね。

当時、カンボジアにいた看護師さんが「カンボジアに病院ができるときには神白先生に戻ってきてほしい」とずっと言ってくれてたんですが、私は「婚活しないといけないから駄目」と言っていました(笑)。ただ、その看護師さんがわざわざ帰国してきて「このタイミングでもう一回カンボジア戻りましょう」と説得され、私も40歳を過ぎたので婚活も諦めて、カンボジアに行きました。2015年頃に感染症の専門医も取得できましたし、長崎大学の教授にも最初から「カンボジアに病院ができたら、そちらに行くかもしれません」と伝えていたので、それを区切りとして行きました。

─ ミャンマーと比較して、カンボジアでの業務はいかがでしたか。

カンボジアでは最初はボランティアの常駐医師として活動しました。ミャンマーでは日本人医師とミャンマー人の看護師で診療するという状況でしたが、カンボジアではスタッフ集めからしなくてはいけませんでした。途中でカンボジア人の医師も雇いましたので、そのカンボジア人医師を教育しながら、協力して医療活動を行っていくというスタイルでした。また、ミャンマーではお寺の病院を間借りしてやっていたので、管理や運営というアドミン部分はそのお寺側がやってくれていましたが、カンボジアは自分たちで病院を立ち上げているので、運営部分もやらなくてはいけませんでした。そのため、運営とカンボジア人の医療者を育てることが新しく加わった業務になりました。

─ 開院されてから苦労したことはどういったことでしょうか。

郊外にある病院だったので、インフラがあまり整っておらず、毎日のように停電していました。開院直前にどこかから1本だけ電線を引っ張ってきて、医療機器のテストをして、開院時にはようやく電気がつくようになりましたが、それでも停電しますし、停電すると水が出なくなるしで、インフラの維持にとても苦労しました。カンボジアの医療者を雇用するにあたり、今でこそ現地医療者は育成が進んで頼もしいですが、最初は看護師と助産師を4人ずつ雇ったものの、大学を卒業したばかりだったため、基本的なことから教えていきました。当時いた通訳の方も日本語能力は高くなく、言葉がなかなか通じませんでした。英語が分からない方も多かったので、医学用語の理解やコミュニケーションが大変でしたね。それに、もちろん患者さんも最初はなかなか来ませんでした。郊外ということもあり、ジャパンハートの病院を知っていただくことに時間がかかり、当時は患者さんを集めることも課題でした。

─ 日本だと開業する際にはリサーチすることが一般的ですが、カンボジアでもリサーチなどはするのでしょうか。

カンボジア人による純粋な病院であれば、もちろんそういったことを気にすると思います。ジャパンハートは2009年から2015年頃までモバイル診療という形で地方の公立病院を間借りして手術活動や外来をやって6年間続けていく中で、継続的な患者さんのフォローアップ、人材の育成や教育に大きな課題を感じ、拠点病院を持つべきだということで、拠点病院を作ることになりました。当時のジャパンハートの資金力では土地代の高いプノンペンは難しく、郊外で土地を探したものの、カンボジアは水没する土地が多く、なかなか見つからずに苦労したそうです。そこで当時の保健省長官に相談し、長官が今の場所を勧めてくださいました。
病院のある場所はカンダール州の一番北に位置しており、プノンペンからは約40キロほど離れています。そこに公立ポンネル病院という病院があり、本来はこの地域の中核を担う病院のはずなのですが、当時はあまり機能していなかったんですね。それで、この病院を支援してほしいということで、その病院の裏の水没しない土地を借りさせていただいたのがこの土地を選定した理由と聞いています。

─ その土地でどのように周知を広げていかれたのですか。

保健省長官の依頼として、公立病院と一緒にやっていく形で、公立病院で診られない患者を当院に紹介してもらうシステムが導入されました。私たちは私たちでベストな医療を提供することに集中していましたし、そこまで公立病院に介入することは意識していませんでした。ジャパンハートの強みは手術ができることで、公立病院には手術のできる外科部門がなかったので、手術の必要がある患者が主に紹介されてきていました。その公立病院には助産師のみで構成されている周産期部門があり、当時のジャパンハートには産婦人科医がいたので、周産期に関しては協力していました。どうしても危険なお産もありましたし、公立病院に産科医がおらず帝王切開もできなかったため、リスクの高いお産はジャパンハートで対応する流れにしていました。当時は協力しようとしても反発も結構あり、周産期にしてもそれ以外にしても、公立病院の支援としての結果を出すのは難しかったのですが、10年経って、ようやく、公立病院を地域の中核を担う病院にする、という部分の結果が出てきていると感じています。

─ 2018年にジャパンハートこども医療センターと名称を変更していますが、これはどのような理由があったのでしょうか。

カンボジアに作った病院の最初の名前は「アジアアライアンスメディカルセンター」という名称で、40床くらいの小さな病院だったんです。診療は周産期と手術がほとんどで、公立病院で診た患者さんを受け入れたていました。ただジャパンハートの理念がありましたし、立ち上げた吉岡秀人先生が小児外科医ということもあり、「子どもの医療に注力して、子どもを助けたい」という目標があったんです。そこで、吉岡先生がずっと言っていた「小児がんはいくら手術をしても手術しただけでは良くならない。抗がん剤や放射線治療も必要になる。でも、標準的な抗がん剤治療をすれば半分以上の子どもたちが助かる。だから小児がんを治療できる病院を作りたい」ということを実現することになりました。タイミングよく寄付者もついたので、2018 年の6月に小児がんを治療する病棟を増築して、病院の名前も「ジャパンハートこども医療センター」という名前に変えたんです。その時まで、医療活動の責任者は看護師さんだったんですよ。8年近く事業の代表をされていたのですが、ご自身のライフスタイルの変化や病院の増築が重なり、そのタイミングで医療活動の責任者を看護師さんから医師にスイッチしようということで、「ここでジャパンハートのスタッフになってほしい」と言われ、私もそうするしかないだろうと思って、引き継ぎました。2017年の後半からは嘉数真理子先生という小児がん「ここでジャパンハートのスタッフになってほしい」と言われ、私もそうするしかないだろうと思って、引き継ぎました。2017年の後半からは嘉数真理子先生という小児がん専門の先生がボランティアで来てくれましたが、たまたま研修病院の後輩でした。私が誘ったわけではなくて、彼女自身が小児がんの治療をアジアでやりたいという希望があって、ジャパンハートが小児がんを治療する病院を作ることを聞いて、自ら来てくれたんです。ボランティアでしたが、彼女を小児科部長にして、私は医療活動責任者という形で活動しました。

─ ジャパンハートこども医療センターとして再始動していくにあたって、いかがでしたか。

大変なことばかりでしたね。ジャパンハートという組織は「これをやろう」となると、もう徹夜で準備してでもやるみたいな団体なので、常に準備不足なんですよ(笑)。建物はあるけど、中身はどうするみたいなこともありますし、当時は色々とやりながら、走りながら考える感じでやっていました。病院を新しくしたことで、その年は長期ボランティアの小児科医が4人ほど来てくれたほか、内科医も来てくれました。それから長期活動を経験した看護師は看護師長として雇用しましたが、小児がんの専門性をもっているのは嘉数先生のみでした。吉岡先生も国内外を飛び回り常駐しているわけでもなかったので、何を揃えるべきなのかも分かりませんでしたし、抗がん剤などの入手方法も分からず、手探りでした。それで嘉数先生がプノンペンに行き、色々な人に聞いて薬局に行ったら「ありました」といった具合で、この薬とこの薬が手に入るといったことを調べてきてくれました。私は患者さんを紹介してもらうために、プノンペンの病院にご挨拶に行ったり、小児がん手術の機器をどうやって集めるかなど、悩み事は一杯ありました。

─ それで、どのように進めていかれたのですか。

化学療法は嘉数先生がやりましたが、大きな手術はボランティア医師だけではできないので、吉岡先生の声かけで、九州大学や慶應義塾大学、大阪大学などの小児外科や麻酔科のチームに来ていただき、手術をしてもらう体制ができました。チームには交代で来ていただいたのですが、私が聞いたこともないような機器が必要であったりと、代理店とはやり取りを重ねました。ものを揃えて体制を作るまで1年かかりましたし、大変でした。それから小児がんについても、私は小児がんを治療したことがなかったので、「本当に助かるのかな」「治療できるのかな」と不安でしたが、本当に助かるんですよ。もちろん亡くなる子どももいますが、一回の治療である程度状態が良くなると、そのご家族や本人が笑顔を見せて、喜んでくれるんです。カンボジアの看護師さんたちの中には背負いすぎてしまい、鬱のような状態になる方もいましたが、配置転換などしながら交代で頑張ってもらいました。それまで助からなかった子どもや諦めるしかなかった子どもが助かったり、2、3年経って、元気になっていく姿を見せてくれると、大変でしたが、やって良かったなと思いましたね。

─ 大変なことを乗り越えられてきたのですね。

ちょうど私たちが小児がんに取り組み始めたときに、世界的に「2030年までに世界全体で6割助けよう」という目標が掲げられ、新しい潮流ができました。私たちも賛同を得られる機会も増えてきて、ジャパンハートの活動が認知されるきっかけにもなりました。ジャパンハートがやり始めた小児がんの治療をカンボジアのほかの病院も追随するようになり、実際に助かっていく子供は増えたと思います。世界的にも表彰されるなど、流れに乗った、良いタイミングだったと思います。