話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!
どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。
【出演番組一部抜粋】
国際報道番組「キャッチ!世界のトップニュース」
【ジャパンハート 主なメディア出演】
情熱大陸、グッと!地球便、カンブリア宮殿、世界を変える100人の日本人!など。
今回は【国際医療NGOジャパンハート副理事長 感染症内科・総合診療科】の神白 麻衣子 先生のインタビューです!
テーマは 第1回「あの2年間が私の医療の全てを作ってくれました。」をお話しいただきます。
目次
プロフィール
- 名前
- 神白(こうじろ) 麻衣子(まいこ)
- 病院名
- ジャパンハート医療センター(カンボジア)、
ジャパンハートアジア小児医療センター(カンボジア) - 所属
- 国際医療NGOジャパンハート
- 所属学会
- 日本内科学会
日本感染症学会
日本プライマリケア連合学会 - 資格
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- 内科学会認定医
- 内科学会総合内科専門医
- プライマリケア認定医
- 感染症学会専門医
- 厚生労働省認定臨床研修指導医
- 経歴
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- 1974年東京都東久留米市で生まれる。
- 1999年千葉大学医学部を卒業する。
- 2007年沖縄県で地域医療に従事する。
その後ジャパンハートのボランティア医師として「ミャンマー・カンボジア」の活動に参加する。 - 2009年タイ マヒドン大学熱帯医学ディプロマコース(6ヶ月)を修了する。
- 2010年長崎大学病院熱研内科に所属し、熱帯医学・感染症・呼吸器診療、医学生・研修医教育に従事する。
- 2011年5月にジャパンハートの理事に就任する。
- 2016年5月にジャパンハートがカンボジアに設立した病院で長期ボランティア・スタッフ医師として活動する。
- 2018年ジャパンハートこども医療センター院長(現ジャパンハート医療センター)に就任する。
※カンボジア病院事業責任者を兼任する。
─ 医師を目指したきっかけをお聞かせください。
私は親戚中に医療従事者が誰もいなかったこともあり、子どもの頃から医師を目指していたわけではありませんでした。病院も嫌いでしたしね(笑)。それでも医師になりたいと考え始めるようになったのは高校3年生の頃です。きっかけは忘れたのですが、国際協力に興味が出てきて、高校2年生の頃にその現場で働きたいという将来の夢を持つようになりました。最初は国際協力に関係のあるような文系の学部を志望していたのですが、高校3年生のときに先生から「国際協力の現場で働くのであれば、手に職をつけたほうがいい。私は手に職がなかったから教育のほうに進んで、若い人たちに世界の状況を教えるために地理の教員になった」と言われたんです。そこで、何の職を身につけたら役に立つのかを考えてみると、一番は医師だと気づきました。私が通っていた学校は女子校でしたが、医学部志望の人も数人いて、最初は「女性でも医師になりたい人はいるんだな」と思っていたんです(笑)。でも、そういう人たちが同級生にいたこともあって、医師になるという道もあるんだ、医師になれば海外で役に立てるんだと気づかされました。それで、国際協力の道具として医療を身につけるという目的で医学部を目指すようになりました。
─ 千葉大学を選んだのはどうしてですか。
私は東京都東久留米市の生まれ育ちで、裕福な家庭ではなかったので、大学に行くなら公立の大学で、かつ家から通えるところでないといけないというような暗黙の了解がありました。そこで、家から通える公立の医学部を探したところ、東京大学か東京医科歯科大学(現 東京科学大学)しかなく、その2つはとても難関でした。でも、その頃の3年間ぐらい、千葉大学はセンター試験の配点が高く、二次試験は英語と理科と小論文しかないという、文系寄りの入試をしていたんです。私は高校3年生の途中で理系に変わったので、数学はよく分かっていなかったですし、入試に数学があると無理だなという感じでした。それで千葉大学の入試なら何とかなるかもしれないと思い、親に「2年間は家から通うから受けさせて」と頼むと、OKの回答をもらいました。そして無事に合格して、入学したのですが、私は文系だったものの、生物や化学は好きだったので、医学部の勉強自体は全然興味が持てないということもなく、何とかやっていけました。ちなみに自治医科大学も受験したのですが、東京都の倍率は100倍以上だったので、当然のごとく落ちました(笑)。
─ 初期研修先を沖縄県立中部病院にしたのはどうしてですか。
卒業後は沖縄県立中部病院のプライマリ・ケアコースに行きました。将来、医療機器もないような発展途上国で医療をやるにあたって、聴診器1本で診察できるような医師でないと難しいだろうと考えていたからです。大学の医局に入ると一つの診療科のことしかしないですし、大学の歯車の一つとして機能することが求められるわけですから、中部病院のような研修はできないんですよね。中部病院のプライマリ・ケアコースでは2年間の初期研修後に離島の診療所に行くことになっていました。離島の診療所ではリソースがないところで、ある程度は独り立ちしてやらないといけない状況なので、そういった場所に送り出すにあたっては2年間で身につけられることが多くあるのではないかと思い、中部病院を選びました。現在の初期臨床研修制度はこのようなスーパーローテート研修を参考にして作ったと聞いたことがありますが、そのモデルとなったような研修を以前からしていたのが中部病院でした。
─ 沖縄県立中部病院での研修はいかがでしたか。
今、振り返ってみると、あの2年間が私の医療の全てを作ってくれました。当直も3、4日に1回はありましたし、とても大変でした。中部病院はER型の救急で成り立っている市中病院で、外来からの入院より救急からの入院のほうが多く、研修医であっても、どんな患者さんが来てもある程度の患者マネジメントができるようになりました。短時間で診て、トリアージして、ある一定のレベルまでは治療して、専門治療が緊急で必要な症例は直ちに専門科を呼ぶといったことへの徹底的な訓練を受けました。こうした経験は離島でも私の基盤となって、とても役に立ちましたし、ミャンマーやカンボジアでの診療にあたってもこの経験がなかったら多分、何もできていなかったかもしれません。ただ中部病院入職時、そもそも離島の診療所に一人で行くことを認識していなかったので、3年目の医師が一人で行って本当に大丈夫なのか、とんでもないところに来てしまったのではとも思っていました。赴任したのは西表島で、3年目の医師がどうやって一人で働いているのか分からなかったので、離島にいる中で唯一面識のあった先生に電話をかけ、「24時間休みがあるから、今から診療所に行っていいですか」と突撃見学に行き、3年目の医師でも何とかやっているということをその先生から色々と教わりました。最初は私にそんなことができるわけないから辞めようかなと考えていたのですが、その見学を通して「やっている人がいるんだから頑張ってみるか。先人がいるんだからできないことはないだろう」という感じで、私も3年目に赴任しました。私はもともと色々なことをじっくり時間をかけてやるタイプでしたが、離島も含めて迅速な判断を求められる現場で、一人でやっていたら身につかないようなことも教わることができました。
─ 離島には言葉が通じる外国みたいな雰囲気がありますよね。
もう、まさにその通りでした。そう言えば、沖縄に初めて行ったとき、方言が強すぎて言葉が通じなかったのを覚えています。ある一定の年齢の方までは通じるんですけど、少し年配の方になると何を話しているのか分からず、一気に会話にならなくなりました。その方は方言しか話せないので、私が言っていることも伝わらないし、その方が言っていることも分からないんです。それで、地元の看護師さんを連れてきて、通訳をしてもらっていましたね。沖縄で一旦クッションを置いたので、ミャンマーやカンボジアに行ったときのカルチャーショックは沖縄に最初に行ったときよりも小さかったように思います。