講師 舩越 園子
フリーライター
東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。
在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。
『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。
アトランタ、フロリダ、ニューヨークを経て、現在はロサンゼルス在住。
ローラ・デービスといえば、「豪快」「豪傑」といった枕言葉で語られ続けている女子ゴルフ界のレジェンドだ。
大柄な体格。ドライバーを振れば、誰よりも飛び、絶大なる彼女の飛距離はゴルフファンを魅了した。
そんなデービスのゴルフは、とにかく豪快だったが、さらに豪快だったのは、ティグラウンドにおける彼女の所作だった。
ティアップする際、クラブヘッドで地面をガツンと叩き、砕けた土や砂をクラブとシューズで素早く盛り上げて、そのてっぺんにボールを置くことがあった。
ティペッグを刺す代わりに、盛り上げた土を使うその動作は、往年の男子選手には時折り見られたものの、女子選手ではデービスが唯一で、当時のゴルフファンは「ローラはカッコいい」と憧れの目を向けていた。
80年代後半から90年代に米LPGAを席捲。メジャー4勝を含む通算20勝を挙げたデービスは、シニア年齢を迎えてからもLPGAの大会に出続け、同時に女子のシニアサーキットにも挑み、大活躍している。
現在60歳。「引退」の二文字は、デービスには、まるで無縁のように見え、今でも豪快で元気なデービスは「永遠に現役選手であり続けるのではない」とまで言われていた。
しかし、今年8月のAIG全英女子オープンを間近に控えたとき、突然、「全英女子オープンには出ない」と宣言。ファンや関係者を大いに驚かせた。
全英女子オープンはデービスが2001年以来、1度も欠かすことなく連続出場してきた大会である。
そして、今年の全英女子オープン開催地は「ゴルフの聖地」と呼ばれるスコットランドのセント・アンドリュース。彼女が2015年に世界ゴルフ殿堂入りを果たした思い出の場所だった。
それなのに、デービスはなぜ突然に出場を取りやめようと決意したのか。
「私のゴルフは、もはや全英女子オープンで戦うに値しないレベルになったと感じた。若い選手に道を譲ることが、ファンのためになる。全英女子オープンではレポーターの仕事に専念し、ゴルフのプレーはシニアサーキットで頑張りたい」
豪快なデービスらしく、引き際も実に潔かった。
米LPGA20勝、世界87勝
英国ロンドン近郊で生まれ育ったデービスは、航空機のエンジニアだった父親の転勤により、幼少期の一時期を米ジョージア州で過ごした。
その後、両親が離婚し、デービスは再び英国へ戻ると、2つ年上の兄とともに10歳からゴルフクラブを握った。
兄と妹は近所のムニシパル(公営)のゴルフ場で腕を競い合い、途轍もなく負けん気が強かった妹は、兄に負けることが大嫌いで、飛距離でも兄に勝とうと躍起になったのだそうだ。
デービスの豪快なドライビングと比類稀なる飛距離の礎は、そんな日々の中で培われたのだろう。
アマチュア時代から数々のタイトルを獲得したデービスは1985年にプロ転向。1987年の全米女子オープンをいきなり制覇して一世を風靡し、翌年から米LPGAに正式メンバーとして参戦。
当時のスター選手だったベッツィ・キングやナンシー・ロペス、パット・ブラッドリーらとともに、80年代後半から90年代の米女子ゴルフの「顔」になった。
米LPGAではメジャー4勝を含む通算20勝、欧州女子ツアーのLETでは通算45勝、世界の他のツアーでは通算22勝。全部合わせて世界87勝。世界ランキング1位になり、LETでも米LPGAでも賞金女王に輝き、2015年には世界ゴルフ殿堂入りも果たしたデービスの存在は世界中に知れ渡った。
50歳を過ぎてからは、女子のシニアサーキットにも出場するようになり、すでに2勝を挙げている。
そして、シニア年齢になってからは、米LPGAの試合出場をやや減らし、その分、TV中継におけるコメンテーターやアナリストの仕事も引き受けるようになった。それでも彼女は「私は、まだまだ引退しない」と言い続けていた。
それだけに、今夏のAIG全英女子オープンに「出ない」と宣言したことは、周囲を大いに驚かせた。だが、ファンのため、大会やツアーのため、そして女子ゴルフ界のためを思ったとき、「私は出場するに値しない」。
いかにもデービスらしい素早い決断だった。
「神の声」、そして社会貢献へ
デービスは判断や決断がとても早い選手だが、そうなったのは、1993年の春の不思議な体験がきっかけだったのかもしれない。
米ゴルフダイジェストのインタビューに応じたデービスは、日本から米国へ戻る飛行機の機内で、突然、味わったこんな体験を明かしていた。
「私はプロゴルファーがとても陥りやすい傾向に完全に陥っているのだと、突然、感じたんです。自分のショットに一喜一憂し、感情的になっていた。ミスしたら怒ったり、落胆したりしていた。でも、ミスしてしまった状況は運が悪かったのではなく、そこからリカバリーできるという幸運であることに気が付きました。そして、それからは常にそう考えるようになりました」
悔しいこと、腹立たしいこと、辛いことに遭っても、それはバッドラックではなく、そこから立ち直ることができる、挽回することができるというグッドラックだと考える。
それは、機内にいたデービスの耳にどこからともなく届いた神の声だったのかもしれないが、その声は、その後のデービスをチャリティ活動へと導いたのだそうだ。
ローラ・デービス財団を立ち上げたデービスは、英国をはじめ、世界中の子どもたちのためのチャリティ基金を創設。同時に、ジュニアゴルフ育成のため、そして動物保護のためにも尽力し始めた。
何かを感じたら即決断し、即行動する彼女は、その後は、女子選手仲間やその家族が、乳がんと診断されて闘病したという話を聞いた途端、乳がん撲滅のためのチャリティ基金も創設した。
さらには、障害者ゴルフを世界で広めていくための活動に感銘を受け、日本のISPSハンダと手を取り合って、力を注いでいる。
そんなデービスの熱意と影響力は、たとえ彼女がゴルフの試合を戦う第一線から退いたとしても、彼女の持ち前のパワーと豪快な人柄によって、世界のすみずみまで届くのではないだろうか。
豪快・豪傑なデービスは、人々の永遠の憧れであり続けるに違いない。