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記事・コラム 2026.04.01

神津仁の名論卓説

【2026年4月】日本人の起源、縄文人 その(Ⅺ)彼ら彼女らはどんな人?

講師 神津 仁

神津内科クリニック

1950年:長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年:日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、運動部主将会議議長、学生会会長)、第一内科入局後
1980年:神経学教室へ。医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年:米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年:特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年:神津内科クリニック開業。

「先生みたいな人、フランス人に沢山いますよ」
国際会議場の同時通訳を何十年か前にしていたという奥さんが、夫を連れて来院した時のこの言葉をまだ覚えている。彼女の夫は私より少し背の低い中肉中背の70代の男性だった。今から20年ほど前に、体調不良で時々来院していたがもうしばらく見ていない。

彼は日本語があまり喋れないので、詳しい事は奥さんと話す事で診療が成り立つ、という状況だった。しかし、短髪の彼はどう見ても日本人にしか見えない風貌で、胡麻塩頭に黒い瞳でいつも和やかな笑顔を見せていた。
 「しかし、Mさんはどう見ても日本人ですね」と奥さんに話すと、
 「いやいや、先生は手足が長いでしょう?体格もいいし、先生みたいなフランス人って、フランスには結構いますよ」と答えたのに、へえ、そうなんだ、と半信半疑でいたことを覚えている。なぜこんなことを思い出したかというと、実は縄文人の体格については、現代日本人と比較して手足が長かったという研究結果があるからだ。

縄文人の顔

遺伝子検索によると、その人の頭髪の縮れや目の色、筋肉量などの表現形質が分かるので、残された骨の精査も含めて調査することにより、男女、年齢を含めておおよその姿形を想像する事ができる。縄文人についても、いろいろな研究施設で復元された顔かたちが作られている。もちろん、発掘された頭蓋骨はそれぞれが違う人物なので、復元されている顔貌も様々だ。現代日本人にしても、多種多様な顔貌があるから、最初に話したフランス人の例を見ても分かるように、縄文人はこれだ、という決めつけたステレオタイプを期待してはいけない。私がこの連載を書くに当たって色々な資料を漁って、考古館や博物館のスタッフや専門家達が詳細な考証を経て作り上げた縄文人の姿形を見ていくにつけ、最初に思い描いていた縄文人のイメージは大分変わった。

この写真は新宿歴史博物館に展示されていたものだが、皮のジャケットとジーンズを履かせたら、バイクのブーツの広告に出てくるカッコいいライダーだ。

制作:戸坂明日香、サンクアール
監格:坂上和弘(国立科学博物館)
市谷加賀町二丁目遺跡で出土した縄文時代中期(約5,000年前)の人骨から復示した顔

こんな男前の縄文人がいるのなら、美人の縄文人もいるだろう。以下の写真は、八ヶ岳旧石器研究グループ(1990年結成: 代表者堤隆)が国立科学博物館名誉研究員の馬場悠男氏(形質人類学)に監修を依頼して10ヶ月の歳月を掛けて復元したものだ。「ゆきえ」と名付けられた美しい女性は、20歳で子供が3人いるという設定だという。ちなみに、ゆきえという名は俳優の仲間由紀恵さんのように「健康でにこやかな女性」をイメージしたものだという。私事で申し訳ないが、実は私の次男の嫁によく似ている。彼女は某大学のミス医学部といわれていたようだから、日本的美人には数千年を超えても何かしらの共通点があるのだろう。

ニッポン再発見倶楽部に載せられている縄文人の男女はこんな風だ。イラストレーターの好みにもよるのだろうが、随分と美男美女に書き上げられている。

千葉県佐倉にある国立歴史民族博物館に展示されているものは、以下の写真のようなものだった。現代に置き換えると、田舎に住んで農業をしている純朴な夫婦という設定なのだろうか。男性は朴訥だが強い意志を持つ人だと感じるし、女性は日本女性にみられる控え目な闊達さと落ち着きと優しさと母性を感じる。患者を何万人も診て来た医師の目から見ても、この二人が世田谷区、あるいは新潟県南魚沼郡に住んでいる人だといわれても違和感はない。実際には、もっと頭髪は長く、女性は髪を上げて結っていただろうし、男性は髭を生やしていただろう。衣服も着ていて、女性はイヤリングやブレスレットなどの装飾品を着けていただろう。皮膚は紫外線で色素沈着や皴の形成が早くから生じていたと考えられるから、年齢よりも外見はやや加齢した感じがあったかもしれない。

こうして復元された縄文の人達に色々な個性があるように、日本列島を終の住処として長い旅をして来た人達の顔は一様ではないのだと分かる。私の友人に、ギリシャ人のような顔貌を持った男がいる。窺い知れる範囲での混血系統はなく、いわゆる純粋の日本人なのだが、どこかで顔貌を形成する遺伝子の発現変化が生じたのだろうか。そう考えると、縄文の人々の生きる社会にdiversityが垣間見えて楽しくなる。

How did they live?

こうして身近に彼ら彼女らを感じるようになると、人々がその時代にどう生きていたのか、縄文人はどんな一生を送っていたのかが気になる。国立歴史民俗博物館では、膨大な資料と研究者の探究心と想像力の結晶として創られた縄文人の一生を示すパネルがあった。

このパネルからOCR(Optical Character Recognition/Reader)で読み取って、説明文を文字起こしすると以下のように書かれている。

< 縄文人の一生 > Lifecycle of the Jomon People
無事に産まれてきた人びとは、成人や結婚などのさまざまな人生儀礼を経ながら成長・加齢し、やがて一生を終えていった。ここでは、各地の墓や人骨から得られた情報をもとに、ある縄文人のライフヒストリーを推定してみた。

0歳
無事に生まれた子は、名前付けなど各種の通過儀礼を受ける。
不幸にして死亡した新生児は、土器に埋葬される。

1~2歳くらい
この頃に手形や足形を土版につける儀礼が、北海道南部から東北地方北部にかけておこなわれた。これは、子どもの成長を願う慣礼とも、あるいは死亡した子どもの形見とも言われている。

2~3歳くらい
離乳し、大人と同じ食物をとるようになる。
離乳以前は母親の近くで行動していたが、離乳後には行動範囲が広がる。小玉の首飾りなど、お守りとして子どもの装身具を着装するようになる。

5~6歳くらい
一個の人格として認められるようになり、次第に労働力としても期待されるようになる。

13~18歳くらい
第二次性徴の発現や身体能力の向上を機会に成人儀礼、を受け、大人の仲間入りをする。大人のしるしとして、上顎の左右犬歯もしくは片方の側切歯を抜歯する。
耳飾りなど大人の装身具を着装するようになる。

16~20歳くらい
早ければ、16歳ごろに最初の結婚をする。結婚相手は集落(自集団)外から見つけたらしい。東日本の場合、主に女性が結婚相手の集落へ移動し、西日本では、状況によって男女のどちらかが相手方の集落に移動したようだ。

30~40歳くらい
集落の運営や労働の中心的な役割を担うようになる。
早い人の場合、この頃に祖父母となることもある。

50歳くらい
一部の人は集落を取り仕切るリーダーとなり、集落間の交渉・調整をおこない、若年者を指導する。このような「特別な人」は、東日本では男性が多く、西日本では女住が多かった。

60歳くらい
男女とも集落運営の第一線からは退き、亡くなったら集落の共同墓地に埋葬される。東日本では男女で埋葬される場所が異なる場合もある。また。亡くなった後には、再び生まれ返ってくると考えられていた。

以下の写真は、私の孫が生まれた時に取られた手形の写真だ。テクノロジーが多少異なってはいても、日本人の生き方は4000年の時を超えて縄文の縄を繋ぐように変わらない。

縄文人の寿命

温暖な気候で住みやすい環境であったとはいえ、現代とは比較にならないくらい様々な生命を脅かす多くのリスクがあった事は想像に難くない。そのため、従来から縄文人の寿命は短いのではないかと予想されていた。しかしながら、多くの研究結果がそうであるように、母集団の選び方、データの整え方(cut off値など)によって成果が異なる事は、研究者なら理解可能だ。それゆえ、専門家の見方は一般人の見方とは違う。

世界の見え方も、地政学の専門家からは「世界は多極化に向かっている」と見えている。米国は南北アメリカ大陸を、中東・北アフリカはイスラエルが、ユーラシア大陸はロシアが、アジアは中国が支配する方向に動いている。縄文時代から独自の文化を作って今は西洋の一部となっている日本がどのように振る舞うべきなのか。16,500年の蓄積された叡智が試されている事は間違いがない。

話が脱線したが、この「縄文人は短命だった説」に新たに科学的なメスを入れたのが長岡朋人氏だった。長岡氏は2002年京都大学大学院修士過程を修了し、修士 (理学)、博士 (医学)号を取り、2009年から聖マリアンナ医科大学医学部解剖学講座講師を務めている、古人口学の専門家だ。古人口学は、人口増加率、出生率、死亡率、移動,人口密度,性年齢構成など、過去における人口現象を復元することを目的とする研究分野である。文字で書かれた資料のない縄文時代の研究対象は古人骨という事になる。

詳細は文献を参照して頂ければと思うが、従来の先駆的研究から推定された平均寿命より、縄文人は長く生きたと考えられるという。

長岡氏による図2の説明だ。
「図2は、参考までに1960~1970年代の狩猟採集民Dobe !Kungの15歳以上の死亡年齢分布4)5)を載せたが、65歳以上の高齢者の割合は40%を超える。もちろん、現代の狩猟採集民ゆえに高齢者の割合が縄文時代人よりも高いかもしれない。しかし、今回求めた縄文時代人骨の死亡年齢分布はDobe!Kungのものと大きく矛盾はしない。今回の結果が妥当なものだと仮定するならば、15歳時の平均余命は31.5歳,すなわち、15歳まで生きた人は残り31.5年生きられるということになる。この結果は、従来考えられてきた縄文時代人のライフヒストリーについて再考を迫るものである」と言い添えている。Kobayashiの先駆的研究は評価されるものであるが、65歳以上の古人骨が含まれていない研究であったことを思えば、長岡氏の研究成果の正当性が容認されて然るべきであろう。孫や曽孫に囲まれて楽しい余生を縄文の老人たちが送っていたことを想像すると、我々現代人と略々変わりのない彼ら彼女らなのだと腑に落ちた。

(5月号に続く)

資料

  • 八ヶ岳旧石器研究グループ 「美しすぎる縄文人”ゆきえ”誕生物語」https://note.com/001317/n/n8b18adb6ffe4.
  • 「ニッポン再発見」倶楽部: ここまでわかった! 縄文と弥生 77の謎:三笠書房, 2024.
  • 長岡朋人「縄文時代人骨の古人口学的研究」:考古学ジャーナル 606, 2010.