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記事・コラム 2026.03.01

神津仁の名論卓説

【2026年3月】日本人の起源、縄文人 その(X)人々の暮らし〜遊動から定住へ〜

講師 神津 仁

神津内科クリニック

1950年:長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年:日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、運動部主将会議議長、学生会会長)、第一内科入局後
1980年:神経学教室へ。医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年:米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年:特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年:神津内科クリニック開業。

 Holistic medicineの医師Cindy Engelは、イースト・アングリア大学で動物行動の研究によってPh.D.を取得し、「Wild Health How Animals Keep Themselves Well in the Wild and What We Can Learn From Them(動物たちの自然健康法〜野生の知恵に学ぶ〜)」を著した時点で、オープン大学環境科学部門で教鞭を取るという変わった経歴を持つ研究者だ。

 この本は羽田節子氏(1963年東京農工大学農学部卒業、日本の翻訳家、動物学者。 昆虫生理学専攻。1995年『キャプテン・クックの動物たち』で吉村証子記念日本科学読物賞受賞)が翻訳し、紀伊国屋書店から2003年に出版されている。

 動物で観察される「野生の知恵」であれば、縄文人たちもその知恵を同じように自然の中で学び共有していないはずがない、と考えて読んでみた。

衛生観念と遊動

 Cindy Engelの本から抜粋して幾つかの興味深い観察事実を見てみよう。

 「アンボセリ・ナショナルパークのキイロヒヒは地面から一~二メートルはなれた枝か露岩のうえで眠る。彼らが糞をすると、寄生虫の卵は地面に落ち、二日から八日後に孵る。ヒヒはきまったねぐらをもたないので、一晩か二晩後には清潔な場所に移動しており、もとの森にもどってくるのは、糞虫が糞をすっかり処理しおわって、再感染のおそれがなくなってからである。マンガベイも糞の汚れがたまると、採餌場所を変える。ケニアのラクダ遊牧民によると、遊牧生活は家畜に寄生虫がつかないようにするために生まれた暮らしかただという。ラクダのなかまのアルパカを小屋で高い密度で飼うと、内部寄生者の問題がいろいろでてくることからも、これが裏づけられる。たえず移動をつづけるという野生動物の戦略は畜産に取り入れられ、いくつかの牧草地に順に群を放す方法がとられている。渡りやなわばり、よそ者嫌いといった現象も、寄生虫を避けることに一役買っていると考えられる」

 旧石器時代の人々も、遊動し、非定住化していた。世界はヒトにとっては広く開かれていて、新しい土地はどこにでもあった。ちなみに、旧石器時代前期(400万〜20万年前)の世界人口は12万5千〜80万人、同中期(20万〜4万年前)100〜120万人、同後期(4万〜1万3千年前)220〜300万人と推定され、日本列島には3000〜1万人が住んでいたとの推測がある。ヒトはどこに移動しようが新天地を確保する事ができたのだ。食べ散らかし、物を捨てても大地に帰るだけ。糞尿をどこで排泄しようが誰に迷惑を掛けるわけでもなく、自分たちの暮らしを他者によって阻害されず、「群れ」としての少人数単細胞的な生き方には、自由とmindfulnessとstress freeな暮らし方があった。

 西田正規氏の著書「人類史のなかの定住革命」によれば、「キャンプを次つぎと移動させる遊動生活は、人類が出現して以来、あるいはそれ以前の時代から、数百万年以上にもわたって続いてきた暮らし方の伝統であった。遊動する生活にはそれなりの、多くの優れた利点があったからに他ならない」という。

 その利点は、「遊動民のキャンプ移動の持つ機能は、生活のあらゆる側面にかかわっている。遊動生活とは、ゴミ、排泄物、不和、不安、不快、欠乏、病、寄生虫、退屈など悪しきものの一切から逃れ去り、それらの蓄積を防ぐ生活のシステムである。移動する生活は、運搬能力以上の物を持つことが許されない。わずかな基本的な道具の他は、住居も家具も、さまざまな道具も、移動の時に捨てられ、いわゆる富の蓄積とは無縁である。掛谷誠は、遊動する『狩猟採集民の社会では、生態・社会・文化のシステム全体が<妬み(そねみ)>を回避するように機能して』おり、『病因論においても呪いは基本的に存在せず、あってもきわめてマイナーな位置しか占めない』と述べている。彼らは妬みや恨みすら捨て去るのであろう」と西田氏は指摘する。

 群れを単位とする動物は、遊動するかつてのヒトと同じsystemを未だに持ち続けているので、彼らを観察する事は、かつてのヒトの生き方を知る手掛かりにもなる。

 Cyndy Engelが指摘する「動物たちがよそ者をおそれるのは、よそ者によって病気と死をもちこまれた経験がもとになっているのかもしれない。あきらかにチンパンジーはよそ者との接触に生得的な不快感をもっている。グドールは、ある雌のチンパンジーが別の群の雄に近づいて、彼に触れようと手を伸ばすのを観察した。その雄はすぐに逃げ、葉っぱをつまむと、彼女が触れたところを拭いた。またあるときは、見馴れない人間の来訪者を調べていたこどものチンパンジーが来訪者の頭を足で踏んだ。そのあと彼女は自分の足を嗅ぎ、葉っぱを摘んで、ごしごしと足をこすった。馴染みのないものへの恐れは、外部の病原体との接触を避けることに役立っているにちがいない」という感覚は、村人がよそ者を忌避するやり方によく似ている。

 COVID-19感染流行の盛んな時期、感染が濃厚な地域、特に大都市圏のnumber plateの車が忌避され、親戚にも「こちらに帰って来てくれるな」といわれたのを覚えているだろうか。この傾向は日本だけではなく世界中で見られたという。動物もヒトも変わらないのだ。

定住と村の成立

 縄文海進があって日本列島の環境は大きく変化した。中緯度森林地帯における定住の条件が次第に整って来て、遊動から定住へとヒトの社会は向かうのだが、その要因の一つは食料確保のしやすさだったといわれる。狩猟や漁労の技術的進歩は確実に進んでいた。以前そのことについてはこの縄文シリーズの(Ⅳ)でも述べたが、漁労については、網、浮き、重りなどの定置漁具の進歩によって、魚が豊富に捕れるようになった。

(この2枚のイラストは作者よりcopy不可とされていますので了承ください)

 魚類資源は、陸上で主な狩猟対象となる動物と比較して、単位面積当たりの収穫量がはるかに大きく、定置漁具での収穫作業は単純で、高度な熟練を要さず、体力のない女性や子供、あるいは老人にも出来る。そのおかげで、男性は年間を通じた狩猟活動から解放されて、その労力を丸木舟の製作や住居の建築、長距離の移動を要する交易活動や、越冬食料の貯蔵など、定住生活の維持に必要な他の仕事に振り向ける事ができたのではないだろうか。それが人々にその土地に定住するモチベーションを高めたのは間違いない。

 もちろん良い事ばかりではない。遊動生活にあった利点の逆の環境が生じてくる。「定住生活を維持するには、ゴミ捨て場を定め、便所を作るなどして環境汚染を防止しなければならない。不和や葛藤、不安の蓄積を防ぎ、すみやかに解消するために社会規範や権威が要求され、あるいは不安や災いの原因を超自然的世界に投影し、それをコントロールし、納得するための儀式や呪術が用意される。離合集散するルーズであった社会は、地縁的な境界で区切られ、死体との共存は、死者の世界と生きている人間世界の空間的、観念的分割によって了解される。世界はさまざまに分割され、それがまた社会的緊張関係のより大きな単位となる(西田正規氏著「人類史のなかの定住革命」より)」のだ。

湖のほとりに村を作る

 福井県三方上中郡若狭町に所在する鳥浜貝塚は、多くの出土品が発掘された、今から約12,000〜5,000年前の遺跡として有名だが、その村の様子はこんな風ではないかと西田氏は想像する。

 今は埋れてしまった古鳥浜湖は、現在福井県の三方五湖として知られている五つの湖のさらに内陸部に、三方湖と接して静かな湖面が広がっていた。縄文時代の鳥浜村は、三方湖と鳥浜湖を分けている、西から突きでた岬の先端の狭い場所に営まれていた。村の正面は、南側の鳥浜湖に向かっており、浅い湖岸に作られた小さな桟橋には何艘かの丸木舟がつなぎとめてあり、網を乾燥する木組の台のならんだ広場の向こう側に、スギの皮やアシなどを巧みに葺いた家が四、五軒もあったろうか。家の後には、三方湖の上を走って吹きつける冬の北風をさえぎるように、ツバキやハンノキ、クルミなどを交えた茂みもあっただろう。

 村人は、ほっそりとひきしまった体を、機能的でこざっぱりした衣服で包み、きちんと髪を結い、髪飾りや、イヤリング、ペンダントなどで身を飾っている。

 人びとが最初にこの土地を訪れるようになったのは、寒かった氷河期が終わりに近づいたころの最後の激しい気候の変動期をへて、やがて温暖化が着実に進行しようとする、今から一万年より少しばかり前のことであった。当時、まだ気温は低く湖を囲む山やまにはプナを主とする落葉広葉樹林が広がり、岬の陰の静かな湖面にはヒシがびっしりと浮かんでいた。多縄文を施した土器を持つ縄文時代草創期の人びとはヒシの実を集めるためにここを訪れるようになったのである。

 この写真は、佐賀県神埼市で栽培されている和菱とその収穫の模様を写したもの。西田氏の想像する三方湖、鳥浜湖の湖面にはこのようにびっしりと菱が浮いていて、縄文の丸木舟を巧みに操って人々が楽しく収穫していたのではないだろうか?

 菱は今の日本でも、塩茹でにして皮を剥く、油で揚げる、炒めるなどの調理で美味しく食べられるようだ。以下の写真は、福島県猪苗代高校の探究学習授業で学生が菱の食材としての利用方法を実際に体験したものだ。食感は、芋、栗、クワイなどに似ているとのことだから、調理メニューは色々と考えられる。縄文時代にあっても、豊かな献立が用意されたに違いない。

 さらに西田氏の著書「人類史のなかの定住革命」から、縄文の人々の生き生きとした生活の様子を教えていただこう。

 クリやクルミなど木になるナッツ類は年によって生産量に大きな変動があるのに対して、ヒシは子孫を残すためには毎年実を確実に結実させなければならない一年生の草本植物である。しかも、湖面に密集して繁殖しているために採集は容易である。

 ヒシの実は冬を間近に迎えた人びとが、毎年安定して得ることのできる頼りになる植物であった。ヒシの実を取ることは、最近までおこなわれていたが、淡水性の植物であるヒシは、三方五湖のなかでも一番奥にあり、汽水のほとんど入らない三方湖に多かったということである。それよりさらに奥まった鳥浜湖はヒシの繁殖地としてさらに条件の良い湖であっただろう。

 当時の鳥浜は、おもにヒシの実を採集するキャンプとして使われた。人びとは、ナッツ採集の季節が過ぎると再び移動してしまったが、その行先がどこであったのか、何の手掛かりも残していない。キャンプは湖岸にまで迫っていたブナ林のなかに簡単な小屋掛けをして短い期間を過ごすだけのものであったらしく、遺跡には彼らが食べたヒシ、クルミ、クリの殻が多量に含まれるほかは、縄文前期の堆積層に見られるような植生に対する強い人的影響の痕跡は見られない。

 このとき以来、鳥浜は、ヒシが豊かに実る場所として人から人へと伝えられ、湖が紅葉の山やまに包まれようとするころに、きまってキャンプの煙の立ちのぼる場所となったのである。その後、気候の温暖化にともなってブナの林はしだいに北へ、あるいは山の上に移動し、かわって照葉の薄暗い森がこのあたり一帯に広がったころ、人びとは、ナッツ採集キャンプであった鳥浜の地に村を作って生活するようになった。それは、今からおよそ6000年前、縄文時代前期のことであった。

 今日のわれわれが羽鳥下層出式と分類している土器を作った人たちは、瀬戸内を中心に、関西一円に住んでいた。土器の文様はしだいに変化して、やがて京都市北白川小倉町遺跡で最初に見つかった北白川下層式土器へと変わったが、この土器もまた関西を中心にして広く分布している。鳥浜村は、このような土器製作の伝統を受け継ぐ一つの村となったのである。

 同じ文様の土器作りが広がる背景は必ずしも明らかではないが、この地域一帯に、言語や生活様式、あるいは価値観を共有し、人びとがたがいに交流し合えた地域圏が存在していたと考えなければならない。村人の使った石器の材料は、この土地でも得られるチャートのほかに大阪と奈良との県境にある二上山や、島根県隠岐から運ばれたものであったことが、石材の分析から明らかにされている。石材や人の交流を通じて、鳥浜村の存在は、遠く広い地域の人びとにまで知られていたことであろう。

(4月号に続く)

< 資料 >

1) Cindy Engel(羽田節子訳): 動物たちの自然健康法-野生の知恵に学ぶ,紀伊國屋書店,2006.

2) Cindy Engel: https://www.cindyengel.com.

3) 西田正規: 古代世界の超技術<改訂新版>あっと驚く「巨石文明」の智慧, ブルーバックス B-2250, 講談社, 2024.

4) まつのベジフルジャーナル〜佐賀県 水と緑の町・神崎市の新しい特産「和菱」〜: https://www.matuno.co.jp/vegeful/40384/.

5) INABISHI: https://bit.ly/4lbMt6V.