昨年は縄文人のすばらしさを読者に伝えるのに多くの言葉を費やした。15,000年の時を遡り、見たもの読んだものを自分の言葉に変換する大変さを感じながら、関東周辺の遺跡を巡り感動と感激を感じていた。バイクはこうした近隣の考古館や資料館、遺跡を見て回るのに便利な交通手段だが、もう少し遠くの縄文遺跡を見てみたい、特に日本でも有数の特別史跡である三内丸山遺跡には是非行ってみたい、と思っていた。
三内丸山遺跡
特別史跡は、文化財保護法に基づいて指定される史跡のうち、特に歴史上・学術上の価値が高いものとして文部科学大臣が指定したものをいい、縄文時代の特別史跡は、三内丸山遺跡(青森県青森市)、大湯環状列石(秋田県鹿角市)、尖石石器時代遺跡(長野県茅野市)、加曽利貝塚(千葉県千葉市)の4つが指定されている。
三内丸山遺跡はクリの木で作られた6本の巨大柱が有名だ。それに加えて多くの竪穴式住居や高床式住居、それに多くの人々を収容することの出来る、今でいえば公民館や公会堂のような建物などが復元されていて見る人たちを圧倒する。
解説員の話では、この太古のムラには500人規模で住民が暮らしていたという。ムラの中には広い道路が三本通っていて(下右図の太線)、縄文海進で陸奥湾がすぐそばまで来ていたから、その1本は長さ420mもの長さで海に向かって続いていたという。今もその幅21mの道路が再現されていて、えっ、縄文時代に道路が作られていたの?という驚きと共に、縄文人がここを歩いていたのかと思うと、同時代にスリップしたような感動を覚えた。
その21m道路の両脇には、死者を弔う墓が盛り土されて並び、日本列島の各地からこの地を訪れた客人を迎えたという。陸奥湾に続く大通りの先には船着場があって、各地から乗りつけられた丸木舟が停泊していたようだ。もちろん、お互いにお国言葉で会話が弾むのだが、基本は「縄文語」だ。出雲弁、東北弁に似ていて、そこで話される言葉はズーズー弁だったといわれる。
青森のタクシーの運転手が、「寒暖差があると良く実るタケチミが美味しいですよ」といっていたが、チミはキミで黄実、きれいな黄色い色をした実を付けるトウモロコシのことで「嶽キミ」というブランドだと後で知った。東京でも青森産嶽キミとしてスーパーオオゼキで売っていたので買って食べたが美味しかった。
三内丸山にあるような立派な建築物を建てるのに、言葉を介して力を合わせなければ無理だろう。縄文人が漁業や狩猟をし、漆の工芸品を作る。植物を育て、編組製品を作る、布を織る。どれも言葉なしにはその技術は伝わらない。縄文時代に言葉があるのか?と疑問に思うこと自体がナンセンスだ。
縄文語の研究者である言語学者の小久保氏によると、出雲~東北は縄文語で、沖縄の縄文語は九州縄文語から派生したものだという。近畿・関西で話された言葉は、アクセントがあって、中国語の四声に近いイントネーションの見られる弥生語で、大陸からの渡来人が縄文語を学んでいく過程で形成されたものだという。日本移民がアメリカでnative Englishを獲得していくのに、三世代を要したと考えられているが、同じように縄文語から弥生語そして日本語が形成されていったのだろう。日本各地から三内丸山のムラに集まった人々が、お国訛りで楽しく会話する様子が見えてくるようだ。
縄文尺
今はメートル法だが、私が子供の頃は尺貫法も教わっていた。1尺は約30cm、1貫は3.75kg、食パンは1斤(600g)と決まっていた。和裁をやる人は、尺や寸に馴染みがあるだろう。長さが足りないのを「寸足らず」といい、高度肥満の人を「百貫デブ」などと揶揄する言葉を普通に使っていた時代だ。
それと同じく、縄文時代にも”縄文尺”というものがあったという。三内丸山遺跡に残された大きな建築物を設計・施工するのに、当然基準となる単位を用いて行う必要がある。縄文人は、それをヒトの肘から指先までの長さ35cmとしていたらしい。もちろん、縄文人にも大柄の人もいれば小柄の人もいたと思う。それぞれの人が自分の手の長さで作れば統一が取れずに正確な工事は出来ないだろう。ちなみに私の肘から指先までは43cmだ。
この縄文尺を使って、直径1mのクリの巨木を6本、高さ20mの巨大建築物を建てた。柱の間隔はそれぞれ4.2mで、12縄文尺。ムラの道路の幅は21mだから、60縄文尺。このことを知れば、縄文人が測量をしたり計測をしたりして土木建築をしていたのではないかと想像するに余りある。
しかも、柱の周りは腐りにくくするため焦がしており、内転びや固め打ちといった大型の建物を安定させるために用いる建築技法がすでに用いられていた。
縄文人がどれだけの知恵を持っていたのか、知れば知るほどさらに興味が深まるばかりだ。
縄文人は数字を扱う人
この図は秋田県大湯環状列石から発掘された土板で、高さ5.8cm、小さな穴や列点、円形刺突文を巧みに配置して顔面を表現している(大湯ストーンサークル館所蔵)。この土板はまた数字を表していて、大きく開いているのが口のように見える1。その上の目のように見える二つの穴が1+1=2、中腹左が3、右が4、真ん中の縦に配列されたものが5。腹の刺突文(しとつもん)の計が12、背の刺突文の計が6で、腹の12は背の6の倍数になっている。見ようによっては小型の「電卓」にも見えるこの土版を手に持って、縄文人の男性が何やら計算しているのを想像してみると、最近私の自宅の周辺で道路工事をしていた作業員を思い出して親近感が湧いた。
三内丸山遺跡から出土した土偶(以下の図)には、さらに多くの数字を扱った形跡がある。「算術する縄文人」の論文を書いた藤田富士夫氏が詳細に分析しているが、私の理解の及ばない記述なので、興味のある方、数学好きな方は是非資料を読んでいただければと思う。どちらにしても、縄文人の興味が数字の世界にも及んでいて、それを自分のものとするために大いに知的好奇心を掻き立てられていたのだと思う。
三内丸山遺跡が変えた縄文時代のイメージ
YouTubeに各地の考古館や博物館の館長がコメントしている動画は学術的な信頼度が高い。三内丸山遺跡に関して、三内丸山遺跡センター岡田康博所長が講演している内容も大変参考になった。岡田所長によれば、この遺跡の発掘によって、縄文時代のイメージはかなり変わったという。
「陸奥湾に開けた土地である三内丸山は、定住化しやすい背景として、生物多様性に富み、有用資源の豊富な北方ブナ帯の平野部への進出のあったことが挙げられる。また、北上する暖流と南下する寒流によってもたらされる、サケ・マスなどの水産資源の存在が大きかった。
多くの研究者がいうように、縄文時代は比較的安定して平和な時代であった。縄文遺跡242遺跡から出土した2582点を分析した結果、受傷例23点、暴力による死亡率は1.8%である。縄文時代の暴力による死亡率は、他地域やその他の時代の狩猟採集文化における暴力による死亡率(10数%)に比べてきわめて低い。戦争の発生は人間の本能に根ざした運命的なものではなく、環境・文化・社会形態などのいろいろな要因によって左右されるのだ。」

私は最近BBC製作の「ネアンデルタール人の秘密」という考古学ドキュメンタリー映画を見た。ネアンデルタール人は、30~20万年前ごろのヨーロッパで生まれ、5~4万年前頃に絶滅した人類で、従来ネアンデルタール人は原始的で、愚かで、残忍な存在であると20世紀初頭の大部分の研究者たちは論じてきたのだが、最近ではネアンデルタール人は死者を埋葬する高い知能と優しい心を有していた存在であったと、科学者の間でネアンデルタール人に対する認識が大きく変化している、という内容だった。
Wikipediaによれば、「ネアンデルタール人の技術は非常に洗練されていたと考えられている。その中には、ムスティエ文化の石器産業や、火を起こしたり、洞窟の炉床を作ったり、カバノキ属の樹皮から得られたタールの接着剤を作ったり、毛布やポンチョに似た簡単な衣服を作ったり、機織りをしたり、地中海を航海したり、薬草を利用したり、重傷の治療をしたり、食べ物を保存したり、ロースト、煮沸、燻製などの様々な調理技術を利用したりする能力が含まれている。ネアンデルタール人は、主に有蹄哺乳類を中心に、その他の巨大動物(megafauna)、植物、小型哺乳類、鳥類、水生・海洋資源など、多種多様な食料を利用していた」と書かれている。まるで縄文人が誤解されていて、近年再認識されたのと似たようなシチュエーションだ。
我々は現代が最善で最高な時代だと自己肯定しがちだが、実はそうではないのではないかと疑ってかかる必要がある。ヒトが幸せで安心して生きるのに必要な物は何なのか、古代の人々をもっと知ることでその答えを見つけることが出来るのではないかと思う。
(2月号に続く)
< 資料 >
1) スキマにイストリア「【交易から道路まで】時代を超えた技術を持っていた縄文王国」: https://youtu.be/JqtFUPrPojs.
2) 小泉保「縄文語の発見」: 青土社, 2021.
3) 藤田富士夫「算術する縄文人」-高度な数字処理の事例-: https://x.gd/Cqnka.
4) 三内丸山遺跡センター岡田康博所長レクチャー(前編): https://x.gd/nU1Rh.
5) 三内丸山遺跡センター岡田康博所長レクチャー(後編): https://x.gd/3Y9OO.
6) Wikipediaネアンデルタール人: https://bit.ly/4j9Hu5j.







