上野公園の八重桜が冷たい雨で濡れていた4月13日日曜日、私は滅多に乗らないJR山手線で上野の国立科学博物館を訪れた。私が最近縄文時代に興味を持ってあちこちの遺跡や考古館を巡っていることを知って、息子がこの展覧会を教えてくれたのだ。
考古学といえば、遺跡の発掘、地層の分析などfield workが主体で、研究方法も限られているためとても根気のいる研究分野といえる。その貴重な研究成果を見せてもらっていると、側から見ても大変な労力だと頭が下がる思いだ。しかしありがたい事に最近は、技術の進歩にともない最先端技術が導入されて、年代測定や、人類の足どりを知ることが可能となってきた。その一つが放射性炭素年代測定法だ。元素記号12の炭素と元素記号14の炭素(放射性炭素)が自然界に存在する比率が決まっていることから、放射性炭素の減少率を算出して年代を割り出すことが出来る。20〜30年の誤差があるようだが、古代の研究には有意義な方法といえる。れに加えて、DNA情報を扱うことが出来るようになったことで、人類の起源、日本人の起源を探る研究が加速度的に進んだ。
遺伝情報のうち、ミトコンドリアDNAは細胞レベルで多量に残されており、その遺伝情報は母親のミトコンドリアDNAから、直接子のミトコンドリアDNAに移されていくため、血縁関係を知り、その子孫の動向を知る上で重要なtoolとなるのだ。最近では、COVID-19感染症で有名になったPCR(polymerase chain reaction)法を用いることで、DNAの特定の領域を(RNAはDNAに変換後)増幅させることで、多くの遺伝情報を得ることが出来るようになった。
私の考古学のルーツ
子供の頃石の魅力に取りつかれて、父に「鉱石図鑑・標本」を買ってもらったことがあった。様々な色、様々な質感や色の違い、中にはキラキラと輝く石たちを、時間の経つのも忘れて見ていた。男の子は、恐らく誰もが変哲もない石たちに心を動かされる時期があるだろうから、この頃の石好きをもって「自分の中に考古学の血が流れている」とは思わないが、父方の祖父が考古学に造詣があった事を少しだけ記しておかなければならないだろう。
私の父の実家は、以前書いたように長野県佐久市にある、400年以上続く旧家で、江戸時代の天保年間には田畑50ヘクタールを持ち、1年に年貢米数百石を収穫する豪農だったという。天領米を作って納め、庄屋として村を統轄し、地域に貢献していたことから、功績により名字帯刀を許され神津の姓を名乗っていた。現在の佐久市役所のホームページには、地元の先人・偉人を紹介するコーナーがある。その中で祖父が「佐久の文化と産業を支えた」先日として紹介されている。
その中で「考古学の発展につくす」事について紹介されている文章を抜粋してみよう。
1898(明治31)年、東京帝国大学の坪井正五郎が芝公園丸山遺跡を発掘していた時、慶應義塾に在学していた猛は、福澤諭吉に連れられて毎日のように埴輪や人骨片の採集を手伝い、考古学に大きな興味をもつようになっていた。
結婚した翌年の春、平賀村(現佐久市平賀)瀬戸の八幡神社の神職が、土器や石器の収集家であることを聞き、それらを見せてもらうため訪ねた帰りに、畑の中で打製石斧や矢じりを発見する。その後も畑で薄手の土器や須恵器の破片を採集した。
さらに桑畑の中にあった三つ塚から、土棺の破片と植物の破片などを採集し、先に発掘した人から、直刀二本と板碑をゆずり受けた。猛は東京人類学会に入って専門家を信州に招き、内山・前山・大沢などへ案内して、矢じり・石さじ・石斧・曲玉など多くの採集品を発見した。
考古学に熱心に取り組んだ猛は、南佐久の遺蹟を人類学会に報告した阿部恵吉らの同志を得て、1929(昭和4)年には信濃考古学会を結成、自費で「信濃考古学会雑誌」を発行し、発掘物を独自の方法で整理するなど、考古学の発展につくした。
このような祖父の血を受け継いでかいないでか、最近は随分と縄文人に関心を持って深掘りするようになった。冒頭にあげた国立科学博物館の展示に足が向いたのには、そんな胸騒ぎを感じていたからかもしれない。
原因不明のspastic paraparesis
大学病院の神経内科で病棟医長を7年間勤めていたから、印象に残る神経疾患患者が何人もいる。その内の1人であるYさんは50歳代の男性で、電気工事を請け負う個人会社を自営していた。特に何が悪いというのではないが、歩く際に両足が突っ張って、脚に力が入らず、次第に階段のみならず平地でも歩きづらくなったため、かかりつけ医から紹介されて神経内科の外来を受診した。40年くらい前のことだ。今のように外来で出来る先端技術があるわけでもなく、原因不明の痙性対麻痺として入院精査することとなった。
入院して脳波や筋電図、神経伝道速度の測定や生化学的検査を行うのだが、それ以外の時間は自由だから、Yさんは神経内科病棟の7階の廊下をリハビリがてらに歩いていた。主治医の私も、回診してルーチンの神経診察を済ますと、余った時間に患者とのコミュニケーションをとるために四方山話をする。その日はこんな会話だったように記憶している。Yさん「仕事はうまく行っているんですが、こんな状態じゃ東京にいてもどうなるか分からないんで、田舎に帰ろうかと思っているんですよ」私「そうですか、田舎ってどちらですか?」Yさん「九州です。物価も安いし食べ物がおいしいですからね」
The Lancetと納先生
大学にいると、研究分野では先端にいることを要求される。売れる薬に関係する研究でないと製薬会社も企業も資金的な援助をしてくれないから、公的資金を頼む事になる。当然のことながら研究予算を出す国からは、その成果を社会に還元することが要求される。Yさんを診療し始めたころ、当時の厚生省が神経疾患研究委託費を出して、「ミエロパチーの病態と発症機構に関する研究」が行われていた。昭和61年度班会議は、昭和62年1月24日に全共連ビル4階中会議室で行われ、私も研究関係者として参加していた。そこで発表された演題9に、鹿児島大学第三内科の納光弘助教授が、今まで原因不明とされていたmyelopathyの中に、HTLV-Ⅰ associated myelopathy(HAM)という疾患が含まれていることを発表していた。
納先生は、第一報をThe Lancetの1986年5月3日号(pp.1031-1032)に、第二報を7月12日号(p.104)に輸血に伴う発症例を加えて報告した。私の手元ににその別冊があり、貴重なものなのでここに写真を載せておきたい。
第一報には”HTLV-ⅠAssociated Myelopathy, A New Clinical Entity”という表題をつけて、従来から知られていたtropical spastic paraparesis (TSP)との異同を論じ、新しい疾患概念としてのHAMを提唱した重要な論文となった。この論文の最初に取り上げられているGessainらの”Antibodies to human T-lymphotropic virus type-Ⅰin patients with tropical spastic paraparesis”( Lancet/1985/August)の抄録がPubMedに載っているので読んでみる。
Abstract
10 out of 17 (59%) patients with tropical spastic paraparesis (TSP) had antibodies to human T-lymphotropic virus-I (HTLV-I), as did 5 out of 5 TSP patients with systemic symptoms. Only 13 out of 303 (4%) controls, made up of blood donors, medical personnel, and other neurological patients, had such antibodies. These findings suggest either that HTLV-I is neurotropic or that the virus or a related one contributes to the pathogenesis of TSP.
熱帯性痙性対麻痺(TSP)患者17名中10名(59%)がヒトTリンパ球向性ウイルスI(HTLV-I)に対する抗体を保有しており、全身症状を呈するTSP患者5名中5名も同様であった。対照群(献血者、医療従事者、その他の神経疾患患者)303名中13名(4%)のみが同様の抗体を保有していた。これらの知見は、HTLV-Iが神経向性であるか、またはHTLV-Iウイルスもしくは関連ウイルスがTSPの病因に寄与していることを示唆している
1900年代初頭から、tropical spastic paraparesis (TSP)は熱帯諸国、特にカリブ海周辺で見られる原因不明の緩徐進行性痙性対麻痺で、細菌感染、慢性炎症、栄養障害、食品中毒などが疑われていたが、GessainらによってHTLV-Ⅰ感染がその発症原因として重要だと指摘された。
この疾患が、温帯性気候である日本にも存在することを納先生は鹿児島大学で知ることになるのだが、The Lancetの投稿にもあるように、鹿児島では風土病としてのadult T-cell leukemia/lymphoma(ATLL)が昔から知られていた。ちなみに、その原因がレトロウイルス、HTLV-Iである事は、東北大学、京都大学でウイルス研究をされていた日沼頼夫博士が世界で初めて発見した。納先生らは、鹿児島県では人口の16%にHTLV-Ⅰ抗体のあることを指摘し、対象となった症例は、血清だけでなく髄液中にも抗体があり、異形細胞は髄液中に見られるものの、数は少なくleukemia状態ではないことなど、その臨床像の特徴を明らかにした。
昭和61年(1986年)5月3日発行の日本医事新報(第3236号)に「HTLV-I associated myelopathy(HAM)-新しい疾患概念の提唱-」と題して発表した報告の中に、最初の報告例6例の臨床所見と納先生が提唱する診断指針が載っているのでここに載せておきたい。この別冊も今となっては貴重なものだろう。
首都圏で最初のHAM
ここで最初のYさんの話に戻ろう。納先生らの研究成果を知り、Yさんが九州出身だということから、HAMを疑ってさらに精査をすすめた。血清と髄液検査でHTLV-Ⅰ抗体を証明し、さらに髄液中の異形細胞を証明しなければならない。しかし、その両者とも私の大学の中央臨床検査室では出来なかった。髄液検査は神経内科ではルーチンの検査なので手技は難しくない。しかし、髄液中の細胞を集めて顕鏡するノウハウがなかった。そのため、欧米の文献を調べ、使えそうな手に入る器具を改良し、ろ紙を重ねてスライドガラス上に髄液中の細胞が固定できるようにした。しかし、細胞診を担当する病理細胞診断士には血液中の細胞診断は出来ても、髄液中の細胞を診断した経験がないので、どうしたら良いか、と相談を受けた。それならと外国の髄液細胞診アトラスを買い求めて、一緒に顕微鏡とそのアトラスを見比べて判断するというになった。昔だったから、大学病院の特権を生かし、Yさんには研究に参加してもらうつもりで何週間か入院してもらった。
結局、髄液中には異形リンパ球がみられ、血清、髄液中共にHTLV-Ⅰ抗体が陽性となっていた。経口ステロイドの投与で少しずつ痙性が緩み、回診の度に歩行がしやすくなったことを確認し、Yさんと一緒に喜んだ覚えがある。この時点では、首都圏で初めてのHAM患者であったようだ。その後のYさんの病状を聞いてはいないが、どの程度回復したか、あるいは車椅子のADLになったのか、前者であったら良いのだが。
(次号に続く)
1) 佐久市、佐久の先人事業27「神津猛」: https://x.gd/bad3i.
2) 日沼頼夫: 「新ウイルス物語」日本人の起源を探る, 中央新書789, 1987.