毎年秋に行われるノーベル賞の裏側で、そのノーベル賞のパロディとして「人々を笑わせ考えさせた研究」に与えられるのがイグ・ノーベル賞だ。Nobelに否定を表す接頭語Igをつけた造語で、Ig Nobel Prizeと名付けられた。
この賞は、1991年にMarc Abrahamsが「Annals of Improbable Research」を発刊する際に創設されたもので、書類選考はノーベル賞受賞者を含むハーバード大学やマサチューセッツ工科大学の教授ら複数の選考委員会の審査を経て行われる。Mark Abrahamsがハーバード卒ということもあり、授賞式はハーバード大学のサンダーズ・シアターで行われる。
授賞式の演出はとても凝っていて、受賞者も含めて参加者全員が楽しめる趣向があちこちに散りばめられている。授賞式の講演は60秒と決められていて、それを過ぎると「Please stop. I’m bored.」と8歳の女の子が止めに入る。賞状はコピー用紙で、賞金は価値のないジンバブエドル、観客は紙飛行機を作って授賞式の間じゅう飛ばし続ける、という具合だ。
イグ・ノーベル賞を受賞した研究者は、人に理解してもらえないからといって、途中でその研究を諦めずに続けて、ある結果を出した人達だ。それぞれの研究結果は、後の研究に重要な示唆を与えたり、実用的な製品として売り出されたりしている。2000年に「カエルの磁気浮上」で物理学賞を受賞したアンドレ・ガイムは、2010年に炭素原子が結合した六角構造の蜂の巣状シートであるグラフェン(graphene)の研究でノーベル物理学賞を受賞し、初のノーベル、イグノーベル両賞受賞者となった。独創的でユニークで、人から見たら奇妙な、そして無価値と思われた研究が、後に世紀の大発見だったということは少なくない。
医学の世界では、パーキンソン病、アルツハイマー病の発見がそうだった。
埋れた称賛
James Parkinsonは、1775年に生まれ1824年に亡くなるまで、臨床医として地域医療に励み、また医師としてだけでなく、地質学や化石の研究にも熱心に取組み、町の名士として政治運動にも情熱を燃やしていた。ある時、手がふるえて、身体が固くなり、次第に動けなくなる原因不明の病気を患った一群の患者さんがいることに気付き、これに非常に興味を持った。その研究の成果として、1817年に臨床的な特徴をまとめた『振戦麻痺について(Essay on the Shaking Palsy)』という小冊子を出版、学会に論文として報告した。
しかし、パーキンソンが学会発表した時には、学会員の誰からにも注意を払ってもらえなかった。この論文は後年、神経学の分野では歴史的名著といわれるのだが、残念ながら歴史の中に埋もれてしまった。しばらくパーキンソンの偉業は顧みられなかったが、世界的に著名なフランスの神経学者であるジャン・マルタン・シャルコー(1825~1893)が、数十年後にこの論文を図書館で発見し、その業績をたたえて「パーキンソン氏病」と名付けたのがこの疾患の始まりだった。
アルツハイマーが最初にアルツハイマー病として診た患者は「アウグステ・D」という初老(51歳)の婦人だった。その頃勤めていたフランクフルト・アム・マイン市立精神病院に入院してきたアウグステ・Dは、他の精神病の患者とはかなり違った様子だった。アルツハイマーが「ここに“アウグステ・D婦人(Frau Auguste D.)”と書いて下さい」と頼んだのだが、Frauまで書いて、続きを忘れてしまう、という状態で、彼は「健忘性書字障害」と仮の診断を付けて、じっくりと観察する事にした。最初の診察が1901年11月26日。そして彼女は1906年4月8日に亡くなり、脳がミュンヘン病院のアルツハイマーの解剖研究室に送られた。
アウグステ・Dの脳は、アルツハイマーとイタリア人の客員研究員ペルシーニとボンフィグリオによって綿密に調べられ、「解剖学的には神経細胞の大幅な減少を伴う大脳皮質の萎縮、神経細胞内の特異な原線維変化、線維性グリアの増殖、ミクログリアの増殖が明らかになった。驚いた事には、大脳皮質全体に斑状の独特な物質代謝産物の沈着が認められ、血管の増生が確認された」。それは、まさに現在アルツハイマー病として確認されている病理変化そのものだった。アルツハイマーはこの研究の成果を、1906年11月にチュービンゲンで行われる第37回南西ドイツ精神科医学会に発表した。それが、「大脳皮質の特異な疾患について」だった。
しかし、この発表に対する質問は全くなく、座長からも特別のコメントもないまま終了してしまい、アルツハイマーにとっては落胆した学会発表になってしまった。同じ学会で議論となったのは、フロイトの精神分析と同様の演題に対するもので、これには熱心な質疑応答と討議がなされたようだ。新しい知見が、常に喝采を持って受け入れられるとは限らないのだ。
たくさんの面白い話
イグ・ノーベル賞については、「ヘンな科学 “イグノーベル賞研究40講”(五十嵐杏南著、総合法令出版)」という本があって、面白い話がたくさん載っている。
この中にある医学、生物学に関する話は、我々医療者にとってはとても興味深い。目次を見るだけでも好奇心が湧いてくる。たくさんある目次の中で、真面目に面白い内容のものを抜き書きしてみる。
<目次(抜粋)>
- いびきを改善する楽器
- 話が長い人を黙らせる機械
- 胎児に音楽を聞かせるなら膣の中から
- 命を救うブラジャー
- ジェットコースターで尿路結石が通る
- ネズミはオペラを聞くと寿命が延びる
- キツツキが頭痛にならない理由
- 哺乳類がおしっこにかける時間はだいたい同じ
- 研究のためならハチにも刺される
- セルフで行う大腸内視鏡検査
- クジラの鼻水を採取する方法
- 妊婦さんはどうして前に倒れないのか?
その他に沢山の面白い研究が目白押しだが、もし興味があったら、五十嵐杏南さんの本を購入して読んで欲しい。これらの研究から実際に商品化されたものもあり、NewsになってYouTubeの画像になったものもあるので、時間があればWeb上で見て頂くと臨床の合間に「アハ」体験ができると思う。
ジェットコースターで尿路結石が通る
この中で、2016年8月25日付で” Journal of the American Osteopathic Association ”に掲載されたMarc A. Mitchell and David D. Wartingerの原著” Validation of a Functional Pyelocalyceal Renal Model for the Evaluation of Renal Calculi Passage While Riding a Roller Coaster” は、発表されるがいなや、多くのメディアが食いついた。
2016年10月3日のThe New York Timesでは、実際に用いた実験装置(患者の3D-CT画像を元に3Dプリンターで作成したシリコンモデル)の写真を載せて、著者のMarc MitchellとDavid Wartingerにインタビューした内容を詳細に報じている。
その著者であるSteph Yinによる報道資料が、簡潔にMarc MitchellとDavid Wartingerが行った研究の全容を伝えているので、載せておきたい。
ジェットコースターに乗っている間に、私たちのほとんどが予期する内臓の反応があります。腸の落ち込み、心臓の躍動、指先のしびれ感などです。
人によっては、背中の痛み、下腹部への衝撃、膀胱の圧迫感など、他の感覚を感じることもあります。これらは腎臓結石の通過に伴う症状であり、新しい研究によると、ある種のジェットコースターでは完全に予期せぬ出来事ではない可能性があります。
著者らは、中強度のガタガタ音を立てるジェットコースターが、腎臓から出る管にある小さな腎臓結石を取り除き、腎臓と膀胱を繋ぐ管である尿管に向かって石を推進するのに効果的である可能性があることを発見しました。
米国オステオパシー協会ジャーナルに先週掲載された彼らの報告書は、これらのジェットコースターに乗ることが、直径5ミリメートル以下の腎臓結石を患っている患者を助ける可能性があることを示唆しています。
研究論文の著者であるミシガン州立大学の名誉教授デビッド・ワーティンジャー氏は、「この小さな石が大きな石になって多大な痛みや苦しみを引き起こす前に、それらを移動させるという考えだ」と述べました。
ワーティンガー博士は、遊園地に行った後に腎臓結石が抜けた複数の患者を見たことが、この研究を行うきっかけになった、と語りました。特筆すべきは、フロリダのディズニーワールドにあるビッグサンダーマウンテン鉄道のジェットコースターに3回連続して乗った患者から、それぞれ3回とも腎臓結石が通過した、と聞いたからでした。
彼は、ドクターズ クリニックの泌尿器科医であるマーク ミッチェルと協力して、患者の腎臓のから3D プリントされたシリコン キャストを作成しました。そして、研究者らは等身大模型に腎臓結石と尿を詰めてディズニーワールドに向かったのです。
(7月号に続く)
<資料>
1) イグ・ノーベル賞(Wikipedia):https://bit.ly/4bOtGcl
2) 神津仁の名論卓説2013年6月号「アロイス・アルツハイマーとその業績の意味を考える」:https://www.e-doctor.ne.jp/c/kozu/1306/
3) Marc A. Mitchell and David D. Wartinger: Validation of a Functional Pyelocalyceal Renal Model for the Evaluation of Renal Calculi Passage While Riding a Roller Coaster:https://bit.ly/4aHDRxD
4) A Roller Coaster Remedy for Kidney Stones?(The New York Times):https://bit.ly/4aHDRxD