「昨日のゴルフ、どうでした、スコアの方は?」聞いたのは部下の中川だった。
「うん、まあまあだね」答えたのは支社長の坪井だ。
「最近、坪井さんはお好きなシャトー・ぺガサス・レッドをお飲みになりませんね」。
「うん、どうも身体が受け付けないみたいなんだよ」。
「有機栽培ぶどうだけを使った、深い味わいのワインですよね。もったいないなぁ。坪井さんのお宅にはワインセラーがありますから、とっておけますけど・・・」。
「何本か持っていくかね?そうだ、今週の週末に日本から巡回の医師団が来るはずだったね。お医者さんはグルメが多いから、シャトーはいいかもしれない」。
「そうですか! ありがとうございます。今度来る先生は何ていったかな、橋本先生、だったかな・・・。京都の先生でえらい威勢のいい先生ですねん」。
「君が関西弁になってどうするんだ」。
「えへ、そうですね」。
「日本からのお医者さんが、ギリシャの開業医のクリニックで診察してくれるなんて、夢見たいな話だ。我々がギリシャ語を話せるといったって、会社の交渉や買い物に使える程度のこと。自分の具合の悪いところを医学用語で訴えることなど出来やしないからね」。
坪井は遠くを見つめて言葉を継いだ。
「中川君、これは35年以上も前の話だが、ある企業戦士がいたんだ。アメリカのニューオリンズで働いていた。この人は、ある穀物会社の支社長だったんだが、アメリカ人の医者に診てもらうのが嫌いでね、一度も検診を受けたことがなかったんだ。ある日、ゴルフコンペで、留学していたお医者さんに顔色が黄色いことを指摘された。それでも、元気は良かったから放っておいたんだね。そのうち、腹水が溜って動けなくなって、入院したら肝臓癌だったんだ。アメリカ人の医者は告知をすると言ったが、その奥さんは絶対に言って欲しくない、それが日本人のやり方だ、と言ったんだが受け入れてもらえなかった。時間がない、このままだと日本へは帰れなくなる、ということで、結局、日本航空の特別の計らいで、担架をファーストクラスに入れて日本まで運んだんだ。千葉の病院に入って、2週間目に、息を引き取った。日本の企業戦士の悲しい終末だ・・・」。
「そうですか。でも、ずいぶん詳しいですね、坪井さん」。
「うん、実は、その人は私の父なんだ。私が20歳の時のことだ」。
「・・・・・」。
「でもね、あの悲劇はもう繰り返されない。日本医師会が各国の医師会と協力体制を取って、一つの国に20個所、日本と同じ医療を受けられるようになったんだから」。
「ですよね。我々が持っている、この光カードとICカード、これさえあれば、今までの病歴から検査結果、薬歴まで、すべて丸ごと入っているんですから。それに、インターネットと24時間電話サービスで、日本の企業戦士は、世界中どこにいたって、世界一優秀な救護班を背負っているようなもんですよね、アハハハハハ」。