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記事・コラム 2025.10.05

中国よもやま話

【第59回】民族とは何なのか? ~屯堡人と穿青人からの問い

講師 千原 靖弘

内藤証券投資調査部

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい

欧州のロマンス諸語とその方言分布図
ロマンス諸語とは俗ラテン語から派生した各種言語
これらの言語を母語とするイタリア人、スペイン人、ポルトガル人、フランス人、ルーマニア人などは、ラテン民族の拡散と民族融合で誕生した。
中国でフィールドワーク中の鳥居龍蔵(中央)
1870年生まれの鳥居は、徳島県徳島市出身の人類学者
東アジア各地を現地調査し、多くの実績を残した。

ある地域を故郷とする一つの民族が、広範囲に拡散したり、一部が遠隔地へ移住したりすると、新たな民族が誕生する。例えば、ラテン民族は広大なローマ帝国の各地に拡散し、多くの民族に枝分かれした。同じ現象は中国の主要民族である漢民族にも起きた。

1902年に貴州省中西部でミャオ族(苗族)とイ族(彝族)を調査した人類学者の鳥居龍蔵は、風変わりな青緑色の服を着た女性たちに出会った。ガイドに尋ねると、ミャオ族の一派である「鳳頭苗」という。だが、鳥居は鵜呑みにせず、調査を開始。「鳳頭苗」はミャオ族ではなく、漢民族という結論を出した。

「鳳頭苗」と呼ばれた集団の正体は、明王朝初代皇帝の洪武帝が、14世紀末に西南地域へ派遣した軍隊の末裔。当時の都である南京を中心とした江南地域から移住したため、「南京人」「京族」などと自称しており、自分たちは漢民族という認識を持っていた。

彼らがミャオ族と間違われた理由は、五百年以上も昔から言葉や習俗を守り続けた結果、周辺の少数民族や漢民族と異なる独自性を有していたからだ。彼らの大多数は外部との接触が少なく、少数民族と通婚することもなかった。独自の言葉や習俗には、清王朝時代の影響も見受けられたが、明王朝時代の江南地域の特徴を色濃く保持していた。

1950年代に学者の費孝通を団長とする中央西南民族訪問団が、民族識別作業のために「鳳頭苗」の集落を調査。鳥居と同じ結論に至り、彼らが石造りの駐屯砦である「屯堡」に住んでいることから、「屯堡人」と命名した。屯堡人は文化的な「生きた化石」。独自性を守り続けたことで、周辺の少数民族に同化せず、漢民族のアイデンティティを保った。

貴州市安順市に暮らす屯堡人の女性たち
その服装などから、ミャオ族の一派と周囲から勘違いされていたが、アイデンティティは漢民族
人口30万人あまりの屯堡人は1371年に江蘇省南京を出発した屯田兵の末裔
貴州市畢節市になどに暮らす穿青人
ルーツは屯堡人と同じ漢民族
しかし、アイデンティティは少数民族
人口は70万人弱

一方、屯堡人と同じく貴州省の山間部に暮らす「穿青人」は、少数民族を自認しているが、中国政府には漢民族であると認定された。

穿青人とは中国語で「青い服を着る人」という意味。清王朝時代の書物には、少数民族であると記録されており、穿青人も自分たちは漢民族ではないと認識していた。だが、費孝通が調査したところ、穿青人は明王朝時代に現在の江西省付近から貴州省へ派遣された軍隊の末裔であり、屯堡人と似た集団。最終的に穿青人を漢民族に認定した。

中国の身分証
民族の項目に公認民族ではない「穿青人」と記載
中国は民族登録を柔軟に運用している。

ただし、穿青人が周辺の漢民族に差別され、少数民族を自認していた歴史を考慮し、適切な支援が必要と補足。彼らの身分証に、公認民族ではない「穿青人」として登録することを中国政府も容認し、民族自認や自尊心に配慮した。

だが、穿青人は少数民族としての公認を求め、中国政府に抗議している。その背景には、アイデンティティの確立と少数民族に対する優遇措置の獲得がある。この状況を受け、人口統計で穿青人は「識別されていない民族」に分類され、その数は70万人弱に上る。

明王朝が貴州省へ派遣した30万人の軍隊から、五百年以上を経て誕生した屯堡人や穿青人は、漢民族から新たな民族に変わる過渡期にあった。中国の民族識別作業には、民族自認と他者承認が一致しない問題も存在。「民族とは何か」と我々に問いかけている。