記事・コラム 2025.06.05

中国よもやま話

【第55回】漢民族もミャンマーでは少数民族~コーカン族の戦争と麻薬

講師 千原 靖弘

内藤証券投資調査部

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい

中国の雲南省と国境を接したミャンマーのシャン州には、タイ族の一派であるシャン族をはじめ、さまざまな民族が住んでいる。シャン州のラフ族(拉祜族)、リス族(傈僳族)、ワ族(佤族)は、中国政府が公認する少数民族でもあり、国境を跨いで分布することから、「跨境民族」と呼ばれる。同じ民族が両国で別々の名で呼ばれることもあり、中国のジンポー族 (景頗族)とハニ族(哈尼族)は、ミャンマーでは「カチン族」、「アカ族」という。

中国の主要民族である漢民族も、両国の国境を跨いで分布しており、ミャンマーでは「コーカン族」(果敢族)と呼ばれる政府公認の少数民族だ。コーカン族は17世紀に清王朝に抵抗した南明王朝の永暦帝に従い、ミャンマーへ逃れた漢民族の末裔。後に「コーカン」と呼ばれるミャンマーと雲南省の国境沿い北部に支配地を広げ、18世紀から楊献才を祖とする楊一族が代々統治していた。

永暦帝の逃走路(青線)とコーカンの位置、永暦帝はミャンマー王に捕まり、清王朝に処刑された。

楊一族は1840年に土着民族の首長を意味する「土司」の官職を清王朝から賜り、コーカンは中国に朝貢する首長国となった。1886年に英領インド帝国がミャンマーのコンバウン王朝を併呑。1897年に清王朝はコーカンを英領インド帝国に割譲したが、楊一族による統治は1959年まで続いた。


1909年の英領インド帝国
現在のミャンマーはその一部だった。

現在のミャンマーは、1948年に「ビルマ連邦」として英領インド帝国から独立。こうしたなか中国本土から撤退した中華民国国軍(NRA)が、1950年3月にシャン州に侵入した。NRAは米国の支援を受けながら、1962年2月までコーカンを含む国境沿い一帯から、中国本土へ軍事行動を継続。それは麻薬の密造で資金を稼ぎながらの戦いだった。

NRAがタイへ撤退した後、シャン州に割拠する武装勢力も、麻薬で稼ぎながら戦った。こうして麻薬密造地域「黄金の三角地帯」(ゴールデン・トライアングル)が形成された。


1963年にビルマ政府がコーカンの土司だった楊振才を逮捕すると、弟の楊振声が率いる反政府の革命軍が蜂起。一方、ビルマ政府を支持するコーカン族の羅星漢は、この革命軍を攻撃し、楊振声は1965年にタイへ亡命した。楊一族の親戚筋に当たる革命軍の彭家声は武力闘争を継続するため、1967年にビルマ共産党(CPB)に入党。中国の支援を受けた彭家声は、1969年に羅星漢に勝利し、「コーカン王」と呼ばれた。なお、羅星漢、彭家声のいずれも、麻薬密造に手を染めていた。



1989年にCPBは党員の民族ごとに分裂。このうちCPBのコーカン族は、「ミャンマー民族民主同盟軍」(MNDAA)を創設し、ミャンマー政府と停戦。コーカン一帯は彭家声を主席とする「シャン州第一特区」となった。


コーカンの中心都市ラオカイ(老街)
ミャンマー政府と戦うMNDAAの本拠地
主要産業はカジノ、違法薬物、組織買収、人身売買、特殊詐欺
コーカン族同士の抗争の背景には、この都市の利権がある。

彭家声は1990年に、表向きには麻薬を禁止した。1993年に彭家声が仲間の楊茂良によって追放されると、麻薬が大々的に復活。彭家声はミャンマー政府の支援を受け、1995年にコーカンの実権を再奪取すると、2003年に「麻薬のない地域」を宣言した。だが、裏では密造を続けていたとようだ。麻薬は売る側にも中毒性がある。コーカン族が戦争と麻薬から足を洗うのは難しそうだ。