記事・コラム 2025.05.05

中国よもやま話

【第54回】「西南シルクロード」を阻む「黄金の三角地帯」~少数民族の戦争と麻薬

講師 千原 靖弘

内藤証券投資調査部

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい

中国の国境を跨いで分布する少数民族は、「跨境民族」などと呼ばれる。その数は基準によって異なるが、概ね30種類。中国政府が公認する少数民族は55種類であり、種類の数では半数以上が「跨境民族」に該当する。


2021年クーデター以降のミャンマー北部戦局図
主な跨境民族の武装勢力は以下の通り
KIA:カチン族(中国では景頗族)
TNLA:タアン族(中国では徳昂族)
UWSA:ワ族(中国では佤族)
MNDAA:コーカン族(ミャンマー土着の漢民族=果敢族)

民族事情が複雑な西南地域の雲南省は、昔から定住している少数民族が25種類を数え、うち16種類が隣接する東南アジア3カ国にも分布。うちミャンマーとは北部のカチン州とその南のシャン州に接している。これら二つの州は少数民族の武装勢力が割拠し、ミャンマー国軍との軍事衝突が起きる地域。こうした武装勢力を有するミャンマーの少数民族は、一部が雲南省の「跨境民族」でもある。

カチン州ではカチン族の「カチン独立軍」(KIA)が、中国国境に接したライザの街を中心に支配地域を持つ。カチン族は中国の少数民族「ジンポー族」(景頗族)と同じ民族だ。

一方、シャン州のワ自治管区(通称:ワ州)は、「ワ州連合軍」(UWSA)が支配し、ミャンマーから事実上独立している地域。UWSAは中国の少数民族でもあるワ族(佤族)の民族主義を標榜する武装勢力。1989年に分裂したビルマ共産党(CPB)のワ族兵士で結成された経緯から、中国との結びつきも強い。



UWSAの女性兵士

このワ州は世界屈指の麻薬密造地域「黄金の三角地帯」(ゴールデン・トライアングル)の中心地。薬物犯罪に厳しい中国政府は、ワ州のケシ農家に茶葉やゴムの栽培を勧め、麻薬を「中国には密輸させない」ことでUWSAと協定を締結した。しかし、全面的な製造や販売の禁止で合意しておらず、ワ州に隣接した雲南省は、現在でも薬物犯罪が多い。


ケシ畑を警備するUWSAの兵士(1995年)

ワ州の違法薬物は「三哥」(広東語:サム・ゴー、別名:ザ・カンパニー)というシンジケートが流通させていた。その中心人物は2021年にオランダで逮捕された中国系カナダ人の謝志楽(ツェー・チーロプ)。その背後には香港の「14K」「和勝和」「新義安」「大圏幇」と台湾の「竹聯幇」という5つの犯罪組織があり、薬物の甘い汁を分け合っていた。



1953年のミャンマー戦局図
青色は中華民国国軍(NRA)の支配地域
ミャンマーの中華民国国軍(NRA)部隊
異名は「ドラッグ・アーミー」
麻薬を資金源に中華人民共和国と戦闘
これは米国の「ペーパー作戦」の一環
「黄金の三角地帯」が誕生する発端
その麻薬はやがて米国にも流入した

ワ州の違法薬物ビジネスは、ミャンマー少数民族武装勢力と中華系犯罪組織の協力関係で発展しており、その歴史は長い。ミャンマーは1948年に「ビルマ連邦」として英領インド帝国から独立したが、CPBや少数民族が武装蜂起。そこに中国人民解放軍(PLA)との国共内戦に敗れた中華民国国軍(NRA)が、雲南省からミャンマーへ侵入。米中央情報局(CIA)の支援を受けるNRAは、ワ族などの少数民族を取り込み、麻薬で資金を集め、シャン州などから中国への抵抗を続けた。

1962年にNRAはミャンマーから撤退。その後のシャン州では、彭家声が率いるCPB、羅星漢やクン・サの軍閥、シャン州軍(SSA)などが抗争。彭家声と羅星漢はミャンマー土着華人「コーカン族」(果敢族)、クン・サは中国人とシャン族の混血。いずれも麻薬で資金を得ながら、武装闘争を続けた。シャン州の違法薬物は、「三哥」などの犯罪組織を通じて世界中に流通。黄金の三角地帯は健在であり、雲南省から西に向かう「西南シルクロード」は、戦争と麻薬も大きな障害だ。

コーカン族の軍事指導者だったオリーブ・ヤン(女性)
コーカン土司(首長)だった楊振才の妹であり同性愛者
CIAの資金で麻薬ルートを確立し、NRAを支援
麻薬王の一人である羅星漢は彼女の元副官
2017年に90歳で死去(写真は2015年撮影)