
講師 千原 靖弘
内藤証券投資調査部
1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい

「満洲」という言葉を聞けば、多くの日本人が地名と認識するだろう。だが、満洲とは本来的に民族名であり、地名ではない。
満洲という言葉は1635年に生まれた。1616年にツングース系民族の「女真」(ジュシェン)を率いるアイシンギョロ・ヌルハチ(愛新覚羅・努爾哈赤)が、中国東北地方に「金国」(アイシン・グルン)を建国。これを継いだホンタイジ(皇太極)は、1635年に民族名を「女真」から「満洲」(マンジュ)に変更し、翌年に国号を「大清国」(ダイチン・グルン)に改めた。満洲という言葉の由来は諸説あるが、清王朝の第五代皇帝である乾隆帝は、「文殊菩薩」を意味する梵語の「マンジュシュリー」に由来すると考えていたようだ。
この民族名だった満洲を地名として最初に使ったのは、伊能忠敬の遺志を継いで「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保という説がある。現在の中国東北地方を日本で満洲と呼ぶようになり、これに倣って西洋諸国も地名として用いるようになったという。

赤線のように中国東北地方を「満洲」と記載
このように満洲という言葉は、民族名から地名に変わったという歴史がある。その過渡期は満洲が民族名と地名の両方を意味していたが、1912年に中華民国が成立すると、民族名は「満族」となり、地名と区別された。
1932年に成立した「満洲国」は、清王朝最後の皇帝だった満族の愛新覚羅溥儀を玉座に据えた日本の傀儡国家だが、その国号は民族名ではなく、地名だった。中国は傀儡国家の満洲国を承認しなかった。

大和民族、漢民族、満族の融和を強調

清王朝への臣従を示す弁髪を結わえている

こうした歴史的経緯から、中国で「満洲」という言葉は忌避され、出版物などで基本的に使用できない。満洲国に言及しなければならない場合は、「偽満洲国」「偽満」と呼ぶ。日本人が中国人と交流する際も、満洲という言葉がセンシティブな点に注意が必要だ。
満族の人口は、2020年末で1042万人に上り、中国で公認されている56民族では、6番目に多い。中国東北地方や北京市を中心に分布している。
清王朝の時代に中国を支配した満族は、漢民族社会を激変させた。頭髪の前半分を剃り落とし、長く伸びた後ろ髪を結わえた「弁髪」は、満族への臣従を意味し、この髪形を拒否すれば、処刑の対象となった。服装も満族の影響を受け、旗袍(チャイナドレス)やジャッキー・チェンがカンフー映画で着る立襟の上着などが普及。こうした満族の影響を受けた服飾を現代では「唐装」と呼び、漢民族が本来有していた「漢服」と区別している。
こうした目に見える“ハード”な部分は満族と同じものが強要されたが、目に見えない“ソフト”な部分は、漢民族の方が優勢だった。
支配階級の満族だが、文化面では漢民族に圧倒され、清王朝の末期には、自らの言語である「満語」をほぼ使えなくなっていた。
中華民国が成立すると、満族は苦境に置かれた。満族は氏名で判別できたため、改名する者が続出。大部分の満族は、現代も漢民族風の氏名を名乗る。いまや満族と漢民族は、ほぼ違いがない。満族という民族名は、いまでは単に血筋を示すものにすぎなくなった。