講師 千原 靖弘
内藤証券投資調査部
1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい
世界で2番目に広い内陸国「モンゴル国」は、中国の「内モンゴル自治区」(内モンゴル)に接している。面積はモンゴル国が世界18位の157万㎢。内モンゴルは118万㎢で、世界25位のコロンビアよりも広い。
2020年の人口は、モンゴル国が328万人で、大部分がモンゴル人。モンゴル国は人口密度が世界一低い国家だ。一方、内モンゴルは2400万人で、うち漢民族が79%を占め、モンゴル人は18%の428万人に過ぎないが、モンゴル国よりも100万人ほど多い。
これら「二つのモンゴル」は、民族分断の悲劇を連想させるが、そんな単純な話ではない。二つのモンゴルの背景には、部族間の抗争が絶えなかったモンゴル人の歴史がある。
モンゴル人は13世紀にユーラシア大陸の大部分を征服。広大な「モンゴル帝国」を築き、その一部である元王朝が中国を統治した。
14世紀の半ばに漢民族の明王朝が勃興すると、モンゴル人は中国から撤退。モンゴル高原で元王朝(北元)を存続させ、チンギス・ハーンの末裔がハーン(皇帝)の位を継いだ。
だが、ハーンの擁立をめぐり、モンゴル人の諸部族が分裂抗争を開始。そこに明王朝も参戦し、モンゴル高原は大混乱となった。
15世紀末に即位したダヤン・ハーンは、モンゴル高原を再統一。諸部族をハルハ部やチャハル部など6つのトゥメン(万人隊)に再編成し、「中興の祖」と呼ばれる。
17世紀に入ると、ツングース系民族「女真」(ジュシェン)が、中国東北地方に「金国」(アイシン・グルン)を建国。チャハル部は1635年に金国の第二代ハーンであるホンタイジに降伏し、元王朝の御璽を献上した。
モンゴル人のハーンを兼ねたホンタイジは、翌年に国号を「大清国」(ダイチン・グルン)に改め、民族名も「満洲」(マンジュ)に変更し、清王朝が誕生。ゴビ砂漠以南のモンゴル人を清王朝は統治した。指導者を失ったチャハル部などは、皇帝が直接支配する「内属蒙古」となった。一方、皇帝に臣従する世襲の領主やジャサク (貴族)がいる諸部族は、「外藩蒙古」と呼ばれた。一方、ハルハ部は清王朝の朝貢国になることで独立を保った。
ハルハ部は17世紀後半に北方からロシア帝国の侵入を受ける。さらに、西方のジュンガル帝国に侵攻され、ハルハ部はモンゴル高原から駆逐された。清王朝はハルハ部を助けるため、ロシア帝国と国境条約を締結し、ジュンガル帝国を討伐した。ハルハ部は故地に帰還し、清王朝に臣従。ゴビ砂漠以北も清王朝の外藩蒙古に加わった。清王朝は従来からの外藩蒙古を「内蒙古」、ハルハ部を「外蒙古」と区別。二つのモンゴルの基礎となった。
こうした歴史から、モンゴル国はハルハ部の国家だ。一方、内モンゴルは多様な部族の出身者が多く、漢民族との通婚も多い。同じモンゴルの名を冠しても、二つのモンゴルは大きく違い、民族分断の悲劇からはほど遠い。