講師 千原 靖弘
内藤証券投資調査部
1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい
日本人は民族意識が希薄だ。日本人という自覚はあっても、大和民族と意識すること極めてまれだし、民族名を忘れている人も多い。
しかし、中国人は違う。中国本土で民族名とは、氏名、生年月日、性別と同列の個人情報。身分証にも記載され、表明する機会も多い。そうした国情の背景には、ソビエト連邦を建国したレーニンの思想があった。
レーニンは民族自決権を重視し、大多数の「抑圧民族」に支配される「被抑圧民族」の解放を推進。これには民族運動を満足させることで、少数民族を階級闘争に集中させる狙いもあった。それゆえソ連には「自治」を冠した「共和国」「州」「管区」が多数存在した。
そうしたソ連の影響を受け、中華人民共和国でも、少数民族の自治権を認める「区」「州」「県」などを設置することになった。
そこで、すべての中国国民について、どの民族に帰属するのかを調査する「民族識別作業」を実施したが、非常に困難な作業だった。届け出があった民族名が、1953年時点で400種類を超え、あまりにも多すぎたからだ。
そもそも、西洋由来の「民族」という概念について、中国では定義が曖昧だった。また、自分は「どこの人」「どんな家系」という「地縁」「血縁」の帰属意識はあっても、民族意識はないという人々も多かった。
そこで中国政府は学者を総動員し、少数民族の言語、生活様式、文化、歴史などを調査。その成果を集約し、1954年に38種類の少数民族を公認した。だが、これに不満が続出。反目し合う集団同士が、同一の民族に集約されたり、同族意識のある集団が、別々の民族に分割されたりしたことが、その原因だった。
こうした結果への不満を背景に、1964年の調査でも、届け出があった民族名は183種類を超えた。そこで再整理を実施し、53種類の少数民族を公認。その後も民族識別作業は続き、1965年にチベットのローバ族、1979年に雲南のジーヌオ族を公認した。
こうして漢民族と55種類の少数民族が公認され、今日に至る。だが、いまでも民族識別作業の結果には、多くの課題が残っている。
例えば、独特の女系社会で有名な雲南のモソ人(摩梭人)は、その言語などを根拠に、ナシ族(納西族)に帰属したが、それに異議を唱える人もいる。なお、その場合は「納西族(摩梭人)」や単に「摩梭人」のように表記することも可能。民族名の表記は、わりと柔軟だ。
また、どの公認民族にも帰属しない中国国民も存在し、その数は2020年でも80万人を超え、人口が中規模の少数民族よりも多い。
民族の区別は単純な帰属意識の問題ではない。「各民族は一律平等」と憲法で定めているが、「被抑圧民族」とされる少数民族は多方面で優遇される。これを不公平に感じる漢民族も多く、民族の区別が対立を促すという指摘もある。そこで近年は民族を区別するソ連式ではなく、「中華民族」の概念を強調し、米国の「人種のるつぼ」のような「民族融合」を模索。だが、これを米欧は「民族浄化」と批判する。ソ連式から米国式への転換を図る中国の民族政策だが、道のりは遠い。