記事・コラム 2024.07.05

中国よもやま話

【第35回】“割当品から商品へ”~中国本土の住宅市場勃興

講師 千原 靖弘

内藤証券投資調査部

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい

北京市の単位が従業員に割り当てた住宅
「筒子楼」というタイプの集合住宅
低コスト多人数収容型で、住環境は悪い

1978年12月に改革開放が始まる前の中国本土では、都市の住宅とは売買できる“私有財産”ではなく、勤務先の“単位”から従業員へ割り当てられる“公有財産”だった。

“単位”とは、中国の政府機関や国有企業などを意味する言葉だ。単位は職場の運営だけではなく、住宅、食堂、病院、学校などを建設し、従業員の私生活も面倒を見る。都市住民は何らかの単位に所属。結婚や旅行にも単位からの許可が必要だった。中国の国有企業などの単位は、西側諸国の“会社”のような営利団体ではなく、“特殊な共同体”と言えよう。

単位が住宅を建設しないことには、従業員は住む場所もない。しかし、改革開放前の地方政府や単位は資金に余裕がなく、住宅建設は停滞し、人々の住環境は悪化の一途だった。

農村や都市郊外では、一定の要件と基準を満たせば、自己資金での住宅建設が可能であり、それが主流だった。一部の都市では、この手法を単位が利用し、急場をしのいだ。

東湖新村
中華人民共和国で初の“買える住宅”

改革開放が始まると、黒字主体である家計の資金を活用することで、住宅問題を解決する方法が模索された。広東省広州市の東山区は、“東湖新村”という集合住宅群を建設することで、1979年10月に香港企業と契約。東山区が土地とインフラを提供する一方、香港企業が資金や建設を請け負った。個人でも購入可能な住宅が建設されるのは、これが改革開放後で初の出来事であり、分譲住宅を意味する“商品房”という新しい言葉が生まれた。

広東省深圳市では1980年1月に改革開放後で初の不動産デベロッパーである“深圳経済特区房地産公司”(深房集団)が誕生。広州の“東湖新区”と同じ方式で香港企業と契約し、集合住宅群の建設を始めた。

こうした改革開放の実践を背景に、1980年4月に鄧小平は、“都市住民は住宅の購入、建設、売却ができる”と発言。同年6月に中国政府は“住宅の商品化”を正式に始めた。

憲法十条を改正した第7期全人代第1回会議
(1988年4月13日)
違憲の疑いがあった土地使用権の取引を改憲で追認

1987年12月に深圳市で中国初となる土地使用権の競売が実施され、深房集団が落札した。この現実を追認するかたちで、1988年4月に憲法十条が改正され、“土地使用権は法律に基づき譲渡できる”という一文を追加。“土地の商品化”も始まった。この時期の中国では、課題解決の試みが優先され、それが成功すれば法整備されるという状況だった。

1991年5月に上海市は市民の住宅購入を促すため、シンガポールの中央積立基金(CPF)を参考に、“住宅積立金”(住房公積金)を導入。やがて全国に普及した。

1998年7月に都市住宅制度の改革が発表されると、住宅は割当品ではなく、完全に商品となった。こうして、住宅市場の高成長期が到来。経済成長と所得向上、それに投機熱も加わり、住宅価格は高騰した。

住宅問題の解決は、民間の資金を当てにすることが原点だった。その結果、個人が経営する民営企業が次々と住宅産業に参入し、雇用の受け皿となった。住宅産業は裾野が広く、経済波及効果も大きい。住宅事情は人々の身近な問題でもある。それゆえ中国政府はいつも住宅市場の動向に神経をとがらせている。