講師 千原 靖弘
内藤証券投資調査部
1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい
漢民族の中国社会は多様であり、北緯33度付近の秦嶺山脈と淮河を東西に結ぶ「秦嶺・淮河線」を境に、北部と南部に分かれる。漢民族も小麦食の北方人と米食の南方人に分かれ、言語や文化も大きく異なる。
北部と南部は、そもそも自然環境が異なり、これを背景に「南船北馬」という言葉が生まれた。南部は河川や運河が多く、船が主な交通手段だった一方、北部は平原が広がり、騎馬や馬車で移動したことを表す言葉だ。
中国武術にも南北の違いがある。南部では小柄な南方人が狭い所や不安定な船上で戦うことを想定し、下半身の安定と手技を重視。一方、北部では平原を舞台に、大柄な北方人の体躯を生かした豪快な足技や足腰の重心移動を重んじる。この違いを指すのが、中国武術の「南拳北腿」という言葉だ。
北部と南部は自然環境が違うことから、物産も異なり、経済環境にも差異が生じる。
晋王朝の西暦311年に始まった「永嘉の乱」で、北部は騎馬遊牧民族に占拠され、朝廷が長江の南に逃亡すると、南部は漢民族の新たな根拠地となり、急速に開発が進んだ。豊かな物産を背景に、南部の経済も発展した。
西暦589年に北部の隋王朝が中国を統一すると、第二代皇帝の煬帝は、南北を結ぶ大運河を建設し、経済の一体化を図った。その建設工事は人々を苦しめ、隋王朝が短命に終わる一因となった。だが、大運河が完成すると、南北間の物産取引が促進され、中国経済の一体化が進展。この大運河は後の歴代王朝も大いに活用し、現在でも使われている。
中国南部のスーパーマーケットに行くと、「南北貨」のコーナーがある。ナッツ類や干物などは、ここで見つかる。この南北貨という言葉が生まれた背景には、大運河と長江が交わる江蘇省の南京や揚州で、南北の特産品が取引されたことがあるとみられる。
宋王朝の時代になると、南部の経済的重要性は、さらに増した。稲作の中心地だった長江下流域の蘇州や湖州が、中国の穀倉地帯となったからだ。この地の収穫が、中国全体の食糧問題を左右したことから、「蘇湖熟すれば、天下足る」という言葉が生まれた。
宋王朝は大運河の要所である開封に都を置いた。その繁栄ぶりは「清明上河図」という絵巻物の傑作を通じて今日に伝わり、南部の物産を運搬する船の様子も描かれている。
長江下流域は農業で蓄積した資本を絹織物生産などに投資し、軽工業地帯に発展。その結果、穀倉地帯は長江中流域に移ったが、食糧を南部に依存する構造は変わらず、「南糧北調」(南の食糧を北に運ぶ)という言葉が生まれた。なお、1978年に改革開放政策が始まると、南部で製造業などが急速に発展。南部の経済規模は、北部を凌駕した。食糧生産は経済発展で出遅れた北部への依存を強め、21世紀では完全に「北糧南運」(北の食糧を南に運ぶ)という状況となった。
その一方で北部の慢性的な水不足を解決するため、南の水を北に運ぶ水利プロジェクト「南水北調」が2002年に始動。隋王朝に始まる南北一体化への挑戦は、今日も続く。