講師 千原 靖弘
内藤証券投資調査部
1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい
中国株が大きく動くと、上海の証券会社に群がる個人投資家の姿が、日本のニュース番組でも紹介されたりする。
そうした光景を見た人から、“中国人はカネに卑しい”という感想を聞いたことがある。日本人らしい感想だ。
日本では昔から投資について、“カネに卑しい”というイメージが強い。
「そんなにカネが欲しいのか?」
この言葉は人を蔑むものであり、カネを追い求めることに否定的な思想を感じる。
では、この言葉を少し変えて、“カネ”を“自由”に読み替えたら、どうだろう?
「そんなに自由が欲しいのか?」
これは不自由さに抵抗する人にかける言葉であり、侮蔑の気持ちは感じられない。自由を求めるのは当然と、誰もが思うだろう。
なぜ“カネ”を“自由”に読み替えたのか?それはカネを欲することの本質が、自由を求めることだからだ。
自由については様々な定義があるが、ここでは「何者にも束縛されず、自分のしたいことができること」とする。この定義に異論を唱える人は、そんなに多くはないだろう。
ここに富士山登頂を夢見る若者がいるとする。登山道が開放されていれば、富士山に登ることは、特に制限されていない。何の束縛もないので、彼は自由だ。
ただ、彼に十分な体力や登山費用を支払う能力がなかったら、富士山登頂は実現しない。その場合、彼は自分のしたいことができないので、不自由と言える。
自由には二つの種類がある。
一つは、誰にも束縛されない“受動的な自由”。もう一つは、自分の思い通りに動く能力があるという“能動的な自由”だ。この二つを兼ね備えなければ、本当の意味で自由にはなれない。
日本のような社会では、“受動的な自由”が幅広く認められている。いつ、どこで何をしようが、たいていは自由だ。
では、能動的な自由はどうだろう?果たして、十分なのだろうか?
例えば、「定年退職後は、豪華客船で旅行したい」と夢見る会社員がいたとしよう。
退職後は仕事に束縛されず、受動的な自由を手に入れるだろう。ただ、その夢を実現するには、能動的な自由が必要だ。
能動的な自由とは、具体的には何か?それは多くの場合、カネを持っているということだ。カネがなければ、豪華客船には乗れない。
能動的な自由は、自分で手に入れるしかない。カネを求めるということは、自由を求めることであり、投資はその一手段と言える。
中国は日本に比べ、受動的な自由が少ない。最近では勉強時間や飲食店で注文できる食事の量まで、政府が規制しようとしている。
規制が多いなか、中国の人々は能動的な自由を求めるのに懸命だ。株式市場に群がるのは、自由を求めるからとも言える。そうした中国の個人投資家は、2021年3月末で2.1億人を超える。総人口の7人に1人が投資家ということになる。
カネを卑しむ日本人は、彼らの目にどう映るだろう。それは、本当の自由をあきらめ、現状に甘んじている姿なのかも知れない。