記事・コラム 2023.11.05

中国よもやま話

【第19回】黄河文明と長江文明の融合と摩擦~中国の南北対立

講師 千原 靖弘

内藤証券投資調査部

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい

【注意】上記は中国での一般的なイメージだが、
あくまでも偏見にすぎない

主食が違うと、文化も異なる。中国は北緯33度付近の秦嶺山脈と淮河を東西に結ぶ「秦嶺・淮河線」を境に、小麦食の北部と米食の南部に分かれる。中国の主要民族である漢民族も、この線を境に「北方人」と「南方人」に大別され、明瞭な差異が存在する。

北方人と南方人は、主食が異なるだけではなく、その違いは多岐にわたる。中国の標準語である「普通話」を話しても、響きが異なるので、すぐに違いが分かる。北方人はR音のような巻き舌音を多用するが、南方人は基本的にそれをしない。そこから、普通話も“北方話”と“南方話”に大別される。

そのほかのステレオタイプな違いを挙げると、体格は北方人が大柄で、南方人は小柄。性格は北方人が豪快で外交的、南方人は繊細で内向的などのイメージが広まっている。

こうした中国と漢民族の“南北対立”は歴史が長い。黄河の氾濫原で紀元前7000年ごろから畑作農業が始まり、黄河文明が勃興すると、北部が中国の中心地として繁栄した。一方、南部では紀元前6000年ごろから長江流域で水稲栽培が普及し、長江文明が興った。

北部では各地に都市国家が誕生し、それらの興亡を経て、領域国家に発展。衣冠の整った官僚機構も発達した。


浙江省博物館所蔵の越人像
文献の記録通り断髪文身の姿

一方、南部は「四面楚歌」で知られる楚人、「呉越同舟」で有名な呉人や越人など異民族の世界であり、黄河文明から蛮人とされた。

例えば、紀元前9世紀に楚人の首領となった熊渠は、「我は蛮夷なり」と開き直った。

諸子百家の一人である楚人の許子は、儒家の孟子に「南蛮鴃舌之人」(モズの鳴き声のような言葉を話す南の野蛮人)と罵倒された。

また、呉人や越人の習俗は、髪を結わずに身体に刺青を入れる“断髪文身”であり、衣冠を整えた北部とは異質だった。

南部の楚人、呉人、越人も、春秋戦国時代の動乱に加わり、中国の覇権を争った。紀元前221年に秦の始皇帝が中国を統一すると、南部の開拓が本格化するが、文明の中心地は長きにわたり北部だった。


「永嘉の乱」で起きた「衣冠南渡」
黄河文明の中心である中原の人々が南部に移動
長江文明の人々と融合し、南部の開拓が本格化

大きな転機となったのは、晋王朝の西暦311年に始まった「永嘉の乱」。騎馬遊牧民族の匈奴が反乱を起こし、朝廷が南部に逃亡。衣冠を整えた文明の民が、長江を越えて、野蛮な南部に移ったことから、この出来事を「衣冠南渡」という。こうして漢民族が南部にも大きな勢力を持つようになり、中国は五胡十六国時代、南北朝時代の分裂期を迎える。

中国は西暦589年に北部の隋王朝によって統一された。だが、唐王朝が崩壊すると、中国は再び「秦嶺・淮河線」の付近で南北に分かれ、五代十国の分裂期を迎える。この線は統一王朝を分断する“急所”でもあった。

中国はモンゴル人の元王朝に再統一されたが、漢民族を北部の「漢人」と南部の「南人」に分け、身分に差を設けたという。


左は北方人がイメージする南方人
右は南方人がイメージする北方人
これはもちろん偏見
どちらも偏見を裏切る個性的な人が多い

明王朝や清王朝の時代には、中国社会や漢民族の一体化も再開したが、北方人と南方人の違いは、今日でも意識される。その背景には、黄河文明と長江文明の融合と摩擦という地殻変動のように壮大で悠久な歴史がある。