記事・コラム 2023.09.20

中国よもやま話

【第16回】現代中国の“漢服ルネサンス”~漢民族の服飾文化の探求

講師 千原 靖弘

内藤証券投資調査部

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい

2001年のAPECで唐装を着た米露首脳
立襟や紐ボタンなどは満州族の影響

ここ数年の中国では、中国の時代劇に登場しそうな華やかで優美な衣装の若者の姿が、しばしば見られる。この衣装を“漢服”という。

“中国的な伝統衣装”としては、漢服のほかに“唐装”がある。唐装にはいくつかの意味があり、一つは文字通り、“唐王朝時代の衣装”。もう一つは単に“中国風の衣装”という意味であり、こちらの用法が今日では一般的だ。


民国時代スタイルの唐装を着た女性

いわゆる唐装とは、旗袍(チャイナドレス)やジャッキー・チェンがカンフー映画で着る立襟の上着などが代表例。昔から多くの人が連想するステレオタイプな中国風の衣装だ。

ただし、唐装のスタイルは、清王朝の時代に中国を支配した満州族からの文化的影響を受けている。

一方、漢服とは“漢民族の衣装”という意味であり、その歴史は意外と浅い。


文革直後の上海はファッションの砂漠

かつての中国は、プロレタリア文化大革命(文革)の影響で、いわゆる“人民服”ばかりとなり、“ファッションの砂漠化”が進んだ。

文革は1976年に事実上の終結を迎え、1978年12月に改革開放が始まると、人々の服装は西洋化に向かって多様化した。

改革開放で中国経済が高度成長期を迎えると、自国への自信を強めた一部の若者たちは、2002年ごろからインターネットを通じ、“漢服運動”を展開した。


明王朝時代の漢民族の服装

“満州族による中国支配や文革で失われた漢民族の伝統的衣装を復興させよう!”というのが、漢服運動の主旨。最初はマイナーな運動だったが、各地で徐々に漢服の愛好家が現れた。彼らは互いに“同袍”と呼び合った。

だが、中国で広く認知されている伝統的衣装は唐装だった。愛好家が仕立てた漢服は日本の“和服”と誤解されてしまい、反日愛国主義の人から攻撃される事件も起きたという。


スタバでくつろぐ漢服の愛好家

2010年に中国は世界二位の経済大国に成長。中国の人々は豊かになり、自国への自信を一段と強めた。すると、西洋化が一巡したこともあり、自国文化の再発見が始まった。

こうした風潮のなかで、少しマイナーな存在だった漢服も、SNSなどを通じて急速に広まった。その背景には、日本人や韓国人みたいに、漢民族も華やかな民族衣装が欲しいという純粋な思いがあったのかも知れない。

生活水準の向上と西洋化の一巡を背景とした自国文化の再発見は、日本でも起きた。

明治大正時代の女学生が着用した行灯袴(あんどんばかま)は、一度は衰退したものの、「はいからさんが通る」の影響もあり、日本経済が好調だった1980~1990年代に復活した。いまでは卒業式の定番衣装となっている。筆者の故郷に近い北九州市は、自国文化の探求に熱心なようで、戦国時代末期の“傾奇者”(かぶきもの)が成人式に登場する。


教授や学生が漢服を着用した大学卒業式

失われた漢民族の服飾文化の復興を目指し、漢服の探求と模索はまだまだ続きそうだ。