講師 千原 靖弘
内藤証券投資調査部
1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい
中国脅威論を喧伝する西側諸国にとって、中国からの“政治亡命者”は、好都合な生き証人であり、格好の宣伝材料だ。だが、その扱いには注意が必要。なぜなら “いわゆる政治亡命者”たちは、どんな情報を西側諸国が欲しがるのか重々承知であり、自分の価値を吊り上げ、高く買わせようとするからだ。
2019年4月にオーストラリア(豪州)に入国した王立強も、そうした政治亡命者の一人だった。彼は豪州の防諜機関に出頭し、政治的庇護を求めた。この事件を19年11月23日に豪州メディアが大々的に報道。日本の週刊誌や新聞も盛んに報じた。
王立強の供述によると、彼は中国共産党の秘密工作員として、14年から香港上場会社の中国創新投資に勤務。この会社の社長である向心夫婦の正体は、香港と台湾で活動する諜報責任者。向心夫婦の信頼を得た王立強は、20年の台湾総統選挙を裏で操る指令を受けた。それは台湾独立志向の強い蔡英文・総統の再選を阻み、中国国民党(国民党)の韓国瑜を当選させる計画だった。
王立強の秘密工作は効果絶大であり、18年の台湾地方選挙で蔡英文・総統が率いる民主進歩党(民進党)が大敗したのは、彼の大手柄という。
王立強の供述が報道されると、豪州のスコット・モリソン首相は“非常に不安視している”とコメント。豪州与党の幹部は王立強を“民主主義の友”と称えた。この事件は台湾でも報じられ、当然のことだが、大きな反響を呼んだ。20年1月の台湾総統選挙にも大きな影響を与え、国民党から立候補した韓国瑜にとって大きな逆風となった。
王立強は11月24日にテレビ出演し、ちょうど台湾に滞在中だった向心夫婦が、実は中国共産党の諜報員であると証言した。身の危険を感じた向心夫婦は、台湾脱出を図ったが、空港で身柄を拘束された。蔡英文・総統は中国本土当局による総統選挙への介入を非難し、直ちに捜査するよう命じた。
豪州や台湾での報道を受け、すでに中国本土当局は11月23日に「選挙介入の報道は、まったくのデタラメ」とコメントしていた。
だが、人間は自分が見たいものを見たがる。王立強が複数の詐欺事件で有罪判決を受けていたことを上海市公安局が公表しても、被告人として証言台に立つ彼の映像を福建省の裁判所が公開しても、彼を“本物のスパイ”と信じたい人々の心は揺るがなかった。
実際のところ、王立強の供述は矛盾やおかしな点が多く、その信憑性は疑わしかった。当初は騒いだメディアも、しだいに事件の報道を避けるようになった。こうした状況に中国本土当局は、“詐欺師がスパイに化けてしまった”と嘲笑った。
この事件で最大の利益を得たのは、再選を果たした蔡英文・総統だろう。王立強の供述が、韓国瑜が落選した一因になったからだ。
一方、最大の被害者は、台湾の「国家安全法」に違反した容疑で逮捕された向心夫婦だった。「国家安全法」と聞けば、20年に制定された「香港国家安全法」や15年に公布された中国本土の「国家安全法」を連想する人が多いと思うが、台湾では87年に「国家安全法」が導入されている。
冤罪を訴える向心夫婦を台湾の検察は1年以上も調べたが、結局は何の証拠も見つからず、国家安全法違反での起訴を断念。容疑を資金洗浄(マネーロンダリング)に切り換えて起訴したが、22年2月の一審判決は向心夫婦が勝訴した。だが、検察が上訴したため、向心夫婦は台湾から出られず、家族に会えない日が続く。
向心夫婦の台湾滞在が続くなか、23年2月に豪州の裁判所も王立強が詐欺師であると認め、政治的保護の申請を退けた。向心夫婦の冤罪は、さらに濃厚となった。
詐欺師と認定された王立強は、やがて中国に強制送還されることになるだろう。一方、“人道的な責任”から、彼の強制送還に反対する擁護者もいる。王立強が強制送還されれば、終身刑や死刑などの重罪が言い渡される可能性があるからだ。そのうえ、台湾や豪州の当局者も、当初は王立強の情報を利用しており、“道義的責任”があると、彼の擁護者は主張している。
しかし、詐欺師と認定された王立強をめぐる“人道的責任”や“道義的責任”に言及する一方で、向心夫婦については誰も無言だ。向心夫婦は当初、3日の台湾旅行を予定していたそうだが、王立強の供述が原因で身柄を拘束され、すでに台湾滞在は3年を超える。
向心夫婦は台湾から出られず、その間に家族が病気になったのに、見舞いや看病に行くことさえできない。また、香港のGEM市場に上場していた中国趨勢も、向心夫婦が経営していた会社なのだが、21年8月に上場廃止となった。
もともと上場廃止の危機にあった中国趨勢だが、経営者の向心夫婦が台湾を離れられない状況にあったことは、挽回の機会が奪われたとも言えるだろう。現在も上場を維持している中国創新は、香港証券取引所の適時開示情報閲覧サービスを通じ、向心夫婦の冤罪を訴え、その回数は22年12月までに29回に達した。だが、これを取りあげるメディアはなく、ニュースとして広まることはない。
西側諸国のメディアは、もはや王立強の話題に触れず、向心夫婦の訴えも報道しない。この事件を今も報道しているのは、国民党系のメディアくらいであり、蔡英文・総統の説明責任を訴えている。世界中のメディアに無視され、その訴えすら台湾を出ることができない向心夫婦は、西側諸国の対中情報戦が生み出した犠牲者ではないだろうか。