
講師 千原 靖弘
内藤証券投資調査部
1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい

アナウンサーが話すのはコーカン訛りの標準中国語
ニュース番組「果敢新聞」は「YouTube」でも視聴可能
字幕の漢字は中国本土と同じ「簡体字」

香港の「鳳凰衛視」(フェニックスTV)が独占取材
2015年2月放送
中国の雲南省に接したミャンマーのシャン州北部には「コーカン」という地域があり、ミャンマー政府公認の少数民族「コーカン族」(果敢族)が暮らしている。ミャンマーの少数民族とは言っても、コーカン族とは土着の漢民族であり、中国では主要民族に当たる。
コーカンは1969年からビルマ共産党(CPB)の支配下にあった。1989年に「ミャンマー民族民主同盟軍」(MNDAA)を率いるコーカン族の彭家声が、「シャン州第一特区」の主席として、コーカン一帯を統治。「黄金の三角地帯」(ゴールデン・トライアングル)として有名なシャン州に属するコーカンも、御多分に洩れず、麻薬と戦争に染まっていた。彭家声は表向きには麻薬を禁止したが、裏では密造を続けていたとみられる。
1993年に彭家声は、CPB時代からの仲間だった楊茂良に裏切られ、コーカンから追放された。コーカンの実権を握った楊茂良は、麻薬ビジネスを大々的に展開。だが、弟が隣の雲南省で逮捕され、麻薬密売の罪で処刑されると、楊茂良は中国政府への報復を誓った。
一方、中国政府は軍を動員し、コーカンとの国境を封鎖。コーカンの経済状況は悪化し、楊茂良は同胞からの支持を失った。1995年に彭家声はミャンマー政府の支援を受け、楊茂良を追放し、コーカンの実権を取り戻した。



2009年8月
「コーカン王」と呼ばれた彭家声だが、2009年に再び追放された。きっかけは辺境地域に割拠する少数民族武装勢力をミャンマー国軍の国境警備隊に再編するというミャンマー政府の計画だった。これをめぐる交渉が決裂すると、ミャンマー国軍がコーカンに侵攻。彭家声はMNDAAの幹部だった白所成などに裏切られ、南のワ州へ逃亡した。その際にミャンマー国軍とMNDAAの彭派が戦闘。3万人を超える避難民が、コーカンから中国国境へ押し寄せた。
彭家声が去ったコーカンは、白所成、魏超仁、劉国璽、劉正祥の「四大家族」が支配した。2010年にコーカンはミャンマー政府が承認する「コーカン自治区」となり、ミャンマー国軍を後ろ盾とする四大家族によって、違法薬物、賭博、売春、人身売買などで栄える「ヴァイス・シティ」(悪徳の都)に変貌。やがて明学昌が特殊詐欺で頭角を現すと、コーカンの支配者は「五大家族」となった。

「産業パーク」などで特殊詐欺集団を庇護し、中国本土に深刻な被害を与え、暴利をむさぼった。
2023年にはミャンマーの北部と東部で数十万人が監禁され、特殊詐欺を強要されていたという。

すれ違う兵士と避難民
一方、コーカンを追放された彭家声は、MNDAAを再編し、ミャンマー国軍への遊撃戦を展開。2015年にはコーカンへ侵攻し、再び避難民が中国へ殺到した。ミャンマー政府は彭家声が中国政府の支援を得ているとみており、それもあってか、ミャンマー国軍の爆弾が中国領に着弾し、死傷者を出した。
彭家声はコーカンの奪回に失敗し、捲土重来を夢見ながら、2022年2月に死去。息子の彭徳仁がMNDAAの実権を継承した。彭徳仁はラカイン族の「アラカン軍」(AA)、パラウン族の「タアン民族解放軍」(TNLA)と同盟し、ミャンマー国軍との戦争を続けた。


コロナ禍で全員マスク着用
「悪徳の都」の王座をめぐるコーカン族の抗争と犯罪ビジネスは、ミャンマーと中国の両政府も看過できない国際問題でもある。