講師 千原 靖弘
内藤証券投資調査部
1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい
清王朝はゴビ砂漠の南北でモンゴル人の土地を区別。17世前半に統治下に置いた南側を「内蒙古」として厚遇した一方、17世紀後半まで独立していた北側を「外蒙古」として処遇した。
外蒙古はハルハ部という大部族が中心。一方、内蒙古は複数の大部族が割拠するうえ、漢民族の方が多い。二つのモンゴルには、清王朝の時代から大きな違いがあった。
清王朝は20世紀に入ると近代化を模索し、その影響は外蒙古にも及んだ。外蒙古の社会は激変し、ハルハ部のジャサク(貴族)たちは清王朝の新たな政治に不満を抱いた。
こうした貴族の一人だったハンダドルジは、外蒙古の独立を構想。密かにロシア帝国を訪問し、独立への後ろ盾を確保した。
辛亥革命が勃発すると、準備万端だったハルハ部の貴族たちは、1911年末に独立を宣言。モンゴル人が信仰するチベット仏教の化身ラマ(活仏)であるジェプツンダンパ8世を皇帝とする「大モンゴル国」を建国した。
ジェプツンダンパ8世は「ボグド・ハーン」(聖なる皇帝)と呼ばれ、神権政治を敷いた。これに内蒙古の貴族たちも呼応し、外蒙古からの軍隊が進駐。だが、ロシア帝国からの撤退要請や清王朝の継承国である中華民国の反撃に遭い、内蒙古との合併は頓挫した。
1915年にロシア帝国と中華民国は「キャフタ条約」を締結。外蒙古の独立は取り消され、「ボグド・ハーン政権」の自治だけを承認。外蒙古を藩属国とする中華民国の宗主権は承認されたが、主権は認められなかった。この結果に中華民国は大きな不満を抱いた。
ボグド・ハーン政権は1917年のロシア革命で後ろ盾を失うと、1919年に中華民国の侵攻を受けて崩壊した。ところが、そこに旧ロシア帝国の白軍が侵攻し、中華民国の軍隊を駆逐。ボグド・ハーン政権を傀儡として復活させ、白軍による苛烈な支配体制を敷いた。
白軍に反抗するモンゴル人の民族主義者や社会主義者の「モンゴル人民党」は、ロシア革命を進める赤軍に支援を要請。1921年に赤軍の後ろ盾で、ボグド・ハーンを君主とする立憲君主制の大モンゴル国が復活した。この2度目の独立に中華民国は猛抗議した。
ボグド・ハーンが1924年に崩御すると、立憲君主制は廃止され、世界で2番目の社会主義国「モンゴル人民共和国」が誕生。モンゴルはソビエト連邦の衛星国と化した。
一方、内蒙古では日中戦争中に日本の傀儡政権が樹立されたが、戦後は中国共産党が支配。1947年に内モンゴル自治区が誕生した。
華民国はソ連との友好関係の樹立を機に、1946年に外蒙古の独立を承認。1949年に誕生した中華人民共和国は、中華民国の継承国であると宣言し、同じく独立を承認した。
台湾周辺しか実効支配していないが、外蒙古を含む領土を主張
だが、中華民国は国共内戦に敗れ、台湾に移転すると、1953年に独立承認を撤回。外蒙古も中華民国の領土と主張した。
モンゴル人民共和国は冷戦終結直後の1992年にモンゴル国に改称し、社会主義を放棄。2002年には中華民国が独立を再承認。ようやく中露両国の影響から抜けつつある。