講師 千原 靖弘
内藤証券投資調査部
1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい
中国政府は「回族」という少数民族を公認している。その人口は2020年の調査で1138万人に上り、中国の総人口の0.81%に相当。55種類の少数民族では3番目に多い。
また、中国には回族の自治権を認めた「寧夏回族自治区」が存在。その面積は総面積の0.55%であり、少数民族の自治区では最小だ。
少数民族で3番目に多いのに、その自治区が最も小さな理由は、回族の特徴にある。
回族は中国語を母語とし、外見も漢民族と変わらない。しかし、イスラム教(回教)を信仰することから、漢民族と区別された。
ただし、中国のイスラム教徒(ムスリム)がすべて回族というわけではない。中国のムスリム人口は約2300万人であり、回族はその半分弱。回族と他のムスリムは区別される。
回族の定義とアイデンティティは非常に複雑な問題であり、これをめぐる歴史も長い。
回族という名称は、モンゴル高原に帝国を築いたテュルク系民族の「回鶻」(かいこつ)に由来する。回鶻は唐王朝の時代に中国西部のタリム盆地に進出。やがてイスラム化し、現代のウイグル人の祖先となった。
西暦996創建の清真寺(モスク)
回鶻の中国での名称は、宋王朝の時代に「回回」へ変化。モンゴル人が支配する元王朝の時代に、西方のムスリムが中国に流入すると、漢民族は彼らのことも回回と呼んだ。
元王朝の時代に中国各地に定住した回回は、明王朝の時代に中国化を強いられ、言語や容貌が漢民族と変わらなくなったが、信仰と宗教生活を保持。彼らは清王朝の時代には、「回民」などと呼ばれるようになった。
中国とアラブの建築様式が融合
20世紀初頭に清王朝の立憲派は、「五大民族」による「五族大同」の理念を提唱。それを中華民国は「五族共和」として継承した。
この五大民族とは、漢民族、満州族、モンゴル族、チベット族、そして回族を指す。ただ、当時の回族とは、中国国内のムスリムの総称だった。信仰以外は漢民族と大差ない回民のほか、独自の言語や文化を持つウイグル人なども、当時は一括して回族と呼ばれた。
中華人民共和国が建国されると、ソビエト連邦にならい、少数民族の地方自治を推進。民族識別作業の調査結果に基づき、従来の回族からウイグル族など9種類の少数民族を分離した。こうして1954年に中国政府は国内のムスリムを10種類の少数民族として公認。このうち再定義された回族とは、言語や文化が漢民族化したムスリムを指す。
その歴史的経緯から、回族は最も広範囲に分散する少数民族だ。特定の故地はなく、各地の習俗に染まり、全国的なまとまりもない。
しかし、中国政府は人口が多い回族にも自治区が必要と考え、1958年に寧夏回族自治区を創設した。だが、自治区内の回族は、2020年でも回族全体の22%。そのうえ、自治区は漢民族が多く、回族は少数派だ。
現代では回族を血筋で認定。一方が回族の夫婦の子は、回族として戸籍登録可能。彼らは棄教しても、少数民族の回族として優遇される。一方、漢民族はムスリムになっても、回族になれない。こうした事情を背景に、回族の特権化や定義をめぐる論争が絶えない。