思いもよらない事がまだまだ世の中にはあって、知識欲、好奇心を募らせる事が今でも少なくない。研究社新英和・和英(第5版)中辞典4.2.5を引くと、Unexpectedlyは
「思いがけなく、不意に、突然、意外なことに(は)」とあり、用例として「Unexpectedly, he was very handsome. 意外なことに彼は実にハンサムだった.」とある。ちょっと意味不明だが、確かにそれはかなり意外なことだ。
聖徳太子はいなかった
私が最近読んだ本で、そのタイトル自体が意外だったのは「聖徳太子はいなかった」(谷沢永一著:新潮新書)だった。「Unexpectedly, Prince Shotoku didn’t exist.」だ。谷沢氏は1929年大阪生まれ。日本近代文学、書誌学の研究者で関西大学名誉教授であった。2011年に亡くなるまでに多くの著書を書き、メディアにも登場するウィットに富んだ方だったようだ。古文書を引いての説明は我々素人には分かり辛く、時々転調する大阪人的発想とその語り口は「ほんまかいな」とツッコミを入れたくなるが、数々の歴史的事実を積み重ねての検証は説得力がある。
書籍は、最初と最後にその著書の概略や趣旨、結論を載せて読者に頭の整理をしてもらうことになっている。本を紹介する者が「読めば分かる」と言ってしまえば身も蓋もないから、全体像を掴める部分を抜粋してご紹介したい。
あれこれ、これほどもっともらしく、これほど長きにわたって、これほどボロを出さずに、ついせんだってまで、えんえんともちこたえた聖徳伝説を、みごとにつくりあげた発案者の、その辣腕に、ほとほと敬服する。ニセモノづくりもここまでくると、超天才的ではなかろうか。
我が国におけるよりぬきの創作の才能は、ヤマトタケルをはじめ、多くの見事な伝説をつくりあげてきた。ほんのわずかな史実から芽を出させ枝葉をのばし、感嘆すべきストーリーをうんだ。平野からあたまをもたげて隆起する山脈のような偉観である。
小林秀雄は、忠臣蔵の芝居に感動しない者は日本人ではないという意味の語を記た。安宅ノ関は今は日本海に沈んでいるそうであるが、しかし義経と弁慶と富樫その他の面々は、今もなお日本人の胸のなかに生きている。ときに虚構は歴史記述よりも強く心に訴えるのである。
さて『帝説』注釈直近版の補注である。そこでは、家永三郎も十七条憲法を聖徳さんの作であると言い立てることはモハヤ通用シナイとあきらめた。また『三経義疏』(十七の章参照)を聖徳さんが講じたと、言いつのってもムダであると悟った。後退また後退である。戦局に利あらずもはや退却しかない。しかしながら、かつて人の印象にのこる言葉を発する名人であった中野重治が、むかし左翼陣営を離脱する進退を転向と呼びならわした、その転向の道筋にも大幅と小幅があると見て、おなじくあとしざりするにしても、五十歩百歩とはちがう、という名文句をはいた。すなわち家永三郎は五十歩さがったところで立ちどまり、態勢をたてなおそうとしたのである。十七条憲法は聖徳さんなるものの編述ではない。それは認める。三経義疏もまた聖徳さんなるものの講義録ではない。それも仕方なく認める。しかし、しかし、である。世間虚仮唯仏是真、これ、これだけは、この遺語と伝える章句のみは、聖徳太子の思想を示すもっとも確実なものである、そう唱えて、一息ついた。
聖徳太子はいなかった。聖徳太子は幻である。聖徳太子は夢であった。聖徳太子は蜃気楼である。聖徳太子は、古代日本における憧れの心情にもとづく理想の人間像を、文字のうえに結晶させたところの、誠に発する虚構である。
聖徳太子の構想は、物および文の、それぞれ三点セットに脚をおく。第一、釈迦像、第二、薬師像、その光背に見る銘文は、はるかのちの世にきざまれた。繍帳に織られて現存するのは、わずか十二文字のみである。そこで『上宮聖徳法王帝説』がむかしに写しとったと称する、太子についての文言を写して補った。しかし『帝説』もまたのちの世の叙述である。物の三点セットは太子と関係がない。
『書紀』編述の作業がすすんでいたころ、支配層の秘められた内部では、聖徳太子のような理想の皇太子像を、いそいでつくりだす必要があった。政権をうばいとって、我が子孫の皇統や長かれと、天武天皇持統天皇の期待をうらぎって、後継者がつぎつぎと若死にする。その次のまたその次の嫡子にと、望みをつないで女帝はがんばった。持統とは、まことにピッタリのおくり名である。 藤原不比等にしてみても、妻(津田由伎子「橘三千代」 昭和50年)が産んだ光明子の婿である首皇子、のちの聖武天皇、この人が成人するまで、対抗勢力を排して持ちこたえなければならぬ。皇室および皇統が確立する以前の時代である。ましてや、ついせんだって出来たばかりの、まだ耳あたらしい皇太子なるものの、その称号、正統、存在、地位、有能、高貴、政治力、学力、作歌、仁慈、立法、信仰、天寵、なかんずく天皇にかわって万事を決裁する予定の潜在的な可能性、すべてをひっくるめて皇太子の尊厳をうちだす必要がある。
聖徳太子の幻像は、政治の必要に対応して政治の力でつくられた。 要請を把握し欲求を感知し、事態の動向に即応し、先見による対策を講じるのが政治である。
—あとがき—
この本は、平成一五年の秋、新潮社の柴田光滋さんと、池田の銘酒呉春の盃をあげ、歓談しているなかから生まれた。
聖徳太子がいなかったことは、とっくに学界の常識となっている。いまさら素人の私などが出る幕ではないのであるが、また一般人の立場からながめると、聖徳太子がフィクションであるという知識が、世間のすみずみにまで広がっているとは、かならずしも言えないように見てとれる。この問題をめぐっての学術書はすでに出つくしているのだから、屋上屋をかさねるまでもないというところから、気楽に気やすく読めるよう、なにを書いてもよい随想ふうに、先学のなしとげた見事な研究成果を、おそるおそる禿筆でなぞってみようかと、酔うほどに興が乗って、身のほど知らずの話になった。
先日、玉川高島屋のうどんやで給仕をしてくれた若い女性に「聖徳太子ってfictionだって知ってた?」と聞いたところ、「知りませんでした」といっていたから、未だに学校ではきちんとした事実を伝えていないようだ。それもUnexpectedlyだな。
前方後円墳はなぜ造られたか
古墳時代というと、写真のような大阪府堺市の大仙陵古墳を思い起こす。昔日本史では「仁徳天皇陵」であると教わった。世界3大陵墓(後の2つは、クフ王のピラミッドと秦始皇帝陵)の一つで、その全長は525mで世界一だという。最近の考古学研究によれば、仁徳天皇陵であるかどうかは疑わしいという。古墳時代は、日本の歴史における弥生時代に続く時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代を指す。一般的に3世紀中葉から7世紀初頭までの約350年間をいうが、この間九州から東北南部の水稲農耕社会において様々な形の古墳が造られており、その数は優に10万基を超えるといわれる。
では、なぜそれほどまでに日本人は、取り憑かれたように多くの古墳を作り続けたのか?それはWikipediaにも書かれていないが、まほろば技術士事務所の農業土木技術者である田久保晃氏が「水田と前方後円墳」という論文で、古墳の周囲にめぐらした周濠が、水田耕作にとって最も重要な、水の安定的供給に果たした、溜池としての役割を指摘している。田久保氏は日本各地でこの話を講演して回っているようで、一般社団法人農業土木協会の定時総会講演会で話した内容がPDF fileで残されているので紹介したい。
なぜ、その場所に円形と方形から成る形で築かれたのか。その立地が盆地縁辺部を反時計回りに移動し、さらに大阪平野をはじめ各地に広まっていったのか。7世紀初頭に、なぜ消滅したのか。そして、300年以上にわたり、巨大な墳丘を築き続けた人びとのモチベーションはどこから生まれたのか・・・。これらの謎は「前方後円墳は、墓であるとともに、その周濠が溜池として機能していた」と考えると、一挙に解けていきました。
(中略)
人びとは、巨大な墓とともに巨大な池を造りたかった。円形の墓を盛り立てるための用土と仮設道路の用土は、周囲の濠を掘削し調達した。池を大きくするために、濠の幅や深さを増すほど残土が増えた。その残土を仮設道路である前方部に盛った。つまり巨大前方後円墳の前方部は「仮設道路」兼「土捨て場」だった、と私は考えました。
4世紀末ごろになると, 前方部から後円部に移る辺りに 「造出し」と呼ばれる突出部をもつ古墳が現れます。 この 「造出し」 の設置目的も謎とされていますが、私は仮設道路の取り付け口だと考えています。 図-3のように、「造出し」から土を搬入、前方部を「仮設道路」兼「踊り場」としてスイッチバック方式で後円部を盛り立てると、運土作業が効率化されます。では、巨大な前方後円墳の位置は、どのように決められたのでしょうか。
「山の辺の道(奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の春日山の麓まで、盆地の東縁、春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に走る大和古道の一つで、最古の道)」沿いには全長200~300メートルの前方後円墳がたくさんあります。「山の辺の道」の東側は笠置山地、西側は奈良盆地の緩斜面の水田地帯。その境界線上に前方後円墳は造られています。
一方、図4に示したラインは、吉野川分水の東部幹線導水路です。このラインに用水路を配置しないと、水田地帯を灌漑するための水のエネルギー、位置のエネルギーが得られない。昔であろうと今であろうと、技術者ならば、同じことを考えます。盆地の水田地帯に用水を供給するためには、この辺りに水源となる溜池や幹線用水路を配置する。私は確信しました。巨大な前方後円墳の周濠は、灌漑用の溜池だということを。
農業土木技術者の面目躍如である。歴史学者、考古学者の誰1人として唱えなかった説だが、engineerだからこそ論証できたunexpectedly theoryだ。そして、民衆は「保存が利き、栄養価が高くうまい食べ物であり、さらに、交易の場においても交換価値が高く、富をもたらす米」の増産のために、自ら率先して古墳造りという重労働に従事したのだと考えられる。いわば米バブルに沸いた古墳時代だったのだ。今から考えるとUnexpectedlyな時代の風が吹いていたのだ。
1) 谷沢永一「聖徳太子はいなかった」: 新潮新書062, 2004.
2) 村忠夫「古代日本の超技術」-あっと驚く「古の匠」の智慧-: 講談社Blue Backs B-2249, 2024.
3) 田久保晃「水田と前方後円墳」: https://x.gd/rX4qN ; JAGREE 97 2019•11, P4-11.