講師 千原 靖弘
内藤証券投資調査部
1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい
英領香港の土地制度は複雑だった。“アヘン戦争”を終結させた「南京条約」が1842年8月29日に締結され、1843年6月26日に発効。これに先立つ1843年4月5日に、大英帝国のビクトリア女王は “香港勅許状”(中国語:英皇制誥)を発布し、清王朝から割譲された香港島を“王領植民地”(クラウン・コロニー)とした。つまり、香港島の土地はすべて英王室の所有地となった。
“アロー戦争”(第二次アヘン戦争)の末期に当たる1860年10月に、英仏連合軍が北京を占領すると、清王朝は英仏露3カ国と「北京条約」を相次いで締結。香港島の北に位置する九龍半島南部が、英国に割譲され、香港の王領植民地に加わった。
割譲された九龍半島南部の北限には、清王朝との境界線“バウンダリー・ライン”(中国語:界限線)が引かれ、関所が設けられた。
1898年6月9日に英国は、界限線の北から深圳河の南に至るまでの地域を清王朝から租借することで契約。租借期間は1898年7月1日から1997年6月30日までの99年間。この “ニューテリトリー”(中国語:新界)と呼ばれる租借地が最後に加わり、英領香港の領域が確定した。新界の土地面積は英領香港の約86%に及び、その租借期限の到来が、いわゆる“香港返還”の背景にあった。
このような歴史を背景に、英領香港の土地は約14%が王領植民地であり、約86%が租借地だった。租借地の新界には当時、10万人ほどが約800の村落で生活していた。新界住民の多くは英国による統治に抵抗。1899年4月には約500人の新界住民が英軍に殺害される“新界六日戦”も発生した。
こうした事情を背景に、新界住民と清王朝の土地所有契約は、1905年に香港政庁との集団借地権契約(ブロック・クラウン・リース)に切り換えられた。新界住民は土地所有権を手放すものの、香港政庁から75年間にわたり土地を租借することで、当時の状況が維持されることになった。なお、この契約は後に1997年6月27日まで延長された。
持ち主がいない新界の土地は、香港政庁の公有地となった。こうして租借地の新界を含む英領香港の土地は、すべて香港政庁が所有することなった。
英国の土地利用形態は、“フリー・ホールド”と“リース・ホールド”に大別される。前者は日本での土地所有とほぼ同じ。後者は日本の定期借地権に相当し、こちらの方が一般的。
英領香港では聖ヨハネ座堂が例外的なフリー・ホールドの土地だが、そのほかはリース・ホールド。誰も土地を所有できず、期限付きの使用権を香港政庁から購入するしかない。1978年12月に改革開放が始まった中華人民共和国では、英領香港の土地制度を参考に、土地使用権の売買が始まった。
皮肉なことに、英領香港と共産主義を標榜する中華人民共和国は、誰もが土地を所有できず、その使用権を購入することしかできないという点で共通していた。もし、英領香港の土地が公有制ではなく、私有制だったら、香港返還の大きな障害となっていただろう。