記事・コラム 2024.06.15

ゴルフコラム

【第84回】どんなときも、誰かのために

講師 舩越 園子

フリーライター

東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。

在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。

『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。

アトランタ、フロリダ、ニューヨークを経て、現在はロサンゼルス在住。

第84回

1990年代の終わりごろ、米ゴルフ界で「天才少年」と呼ばれ、一世を風靡した選手がいた。彼の名は、ハンター・メイハン。1999年の全米ジュニアを弱冠17歳で制したときは、タイガー・ウッズに続く「ネクスト・タイガーでは?」と、ゴルフ関係者から熱視線を向けられていた。

私自身、そんなメイハン少年を取材したい一心で飛行機に飛び乗り、テキサス州ダラスの彼の自宅を訪ねたことが、昨日のことのように思い出される。

あのときは、メイハンの父親モンティがマネージャー代わりになって取材の段取りをつけてくれた。麻薬捜査官を務めていたという父親モンティは、とても厳格そうに見える反面、とても心優しい人柄であることが、初対面だった私にも見て取れ、そんな父親の愛情に育まれていたメイハンは、とても素直で明るい少年だった。

やがてメイハンはオクラホマ州立大学に進み、カレッジゴルフを2年ほど経験した後、2003年にプロ転向。21歳でのPGAツアー・デビューは当時では史上2番目の若さで「やっぱりメイハンはネクスト・タイガー」と大きな期待が寄せられていた。

だが、それから4年間、彼は勝利を挙げることができず、いつしか「ネクスト・タイガー」の呼び名は、彼から遠ざかっていった。

それでも諦めることなく努力を重ねたメイハンは、2007年のトラベラーズ選手権で念願の初優勝を挙げると、2010年には2勝目、3勝目と勝利を重ね、2012年には世界ランキング4位まで上昇した。

夢だったチャリティ活動

プロゴルファーとして、ようやくスポットライトを浴び、それに伴って多くの賞金を手に入れたメイハンは、「プロゴルファーになって一番やりたいと思っていたことをやる」と宣言すると、父親モンティ、愛妻カンディとともに2012年に「ハンター・メイハン財団」を設立した。

「困っている人々、助けを必要としている人々に手を差し伸べ、最大限、力になりたい」

それからのメイハンは、文字通り、ありとあらゆるチャリティ活動に取り組み始めた。

ハロウィンやサンクスギビング、クリスマスといったホリデーシーズンはもちろんのこと、毎週火曜日には「ギビング・チューズディ」の名の下に、貧困家庭やさまざまな施設へ生活支援物資を贈った。

「アメリカ合衆国とアメリカ国民を守ってくれているミリタリー(軍隊)とその家族には、感謝の気持ちを形で表したい」

そう言って、2016年ごろからは、ミリタリー関係者や施設に寄付金や食料、生活雑貨などを贈るようになった。

そのころからは高額な医療費に苦しむ人々への支援も開始。知人が白血病と診断されたころからは、がん患者とその家族を支援する活動も始め、2018年には、そのための寄付を募るチャリティ・トーナメントも開催した。

2019年にはPGAツアー仲間のリッキー・ファウラーやバッバ・ワトソンらとともに「ゴルフボーイズ」なるラップバンドを結成。デビューシングル『Oh! Oh! Oh! 』でラップ調の歌と踊りを披露し、全米、いや世界中のゴルフファンを大いに沸かせた。

このゴルフボーイズは、チャリティ目的で結成されたもので、デビューシングルの売り上げやユーチューブ再生数に応じて得られた収益は、すべて然るべき財団へ寄付された。

メイハンは、どちらかと言えば、物静かな人柄で、派手な衣装を着て歌って踊るゴルフボーイズには最も似つかわしくないタイプだったが、チャリティ目的だったからこそ、彼はあえて加わった。

「考えてみたら、全米ジュニアで優勝してからというもの、僕は人前で大きな声で歌を歌ったことは一度もなかった」

そんなメイハンの告白は、彼がどれほど勇気を振り絞ってラップバンドの一員となったかを物語っていた。

山の中へ赴く決意

その後もメイハンは勝利を重ね、2019年マスターズでは優勝争いに絡んだ。だが、勝利はバッバ・ワトソンにもっていかれ、悲願のメジャー初優勝は夢と化した。

それでも通算6勝の実力者と崇められ、ライダーカップやプレジデンツカップにも米国チームの一員として出場。

しかし、2020年からはスランプに陥り、2021年の夏を最後に、ついに戦線から離れた。それからというもの、メイハンは自分の行くべき道を模索したという。

そして2023年11月、彼はツアープロ業を廃業し、テキサス州の山の中のハイスクールのゴルフ部コーチに就任することを決めた。

そんなメイハンの決意を知らされたとき、ゴルフ界は仰天し、もちろん私も大いに驚かされた。だが、彼の心に、もはや迷いはない様子だった。

「これが、神が示した道だ。暦が2024年に変わったら、早々に妻とともに山の中へ引っ越して、コーチ業を開始したい」

一体どんな経緯で、そんな一大決心に至ったのかを、メイハンはこう説明してくれた。

「山の中のハイスクールのゴルフ部コーチが引退すると聞いて、僕は心を決めた。山の中の生活は決して快適ではないと思うけど、楽しそうだと思える。ツアーでは、試合開幕前の火曜日に『ゴルフが好きだ』と思えなくなってからは、試合初日の木曜日が来ても『ゴルフが好きだ』とは思えなくなっていた」

知名度が高く、ツアー経験豊富なメイハンには、ゴルフ解説者やレポーターのオファーも多々あり、テレビ界で第2の人生を歩む選択肢はもちろんあった。だが、メイハンは「もう歯を食い縛って転戦する日々は終わりにして、高校生ゴルファーのために力を尽くしたい」と心に決めていた。

幼少時代からゴルフクラブを握り、夢だったプロゴルファーになり、社会貢献に力を注いで、ずっと誰かのためになり続けてきたメイハンは、人生の岐路で、ようやく自分の「好き」を優先し、自分のために山の中のハイスクールへ赴くことを決めた。

しかし、その決断によって、メイハンはゴルフコーチが不在となりかけていたハイスクールの学生たちを助けることになった。

きっとメイハンは、生涯、そんなふうに誰かのために力を尽くし、人々のためのハンター・メイハンであり続けるに違いない。

私は秘かにそう思い、心の中で彼に拍手を送った。