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記事・コラム 2026.03.24

プロフェッショナルインタビュー

第3回「自分の研究を世界の最前線で試したい」大分大学病院 環境・予防医学講座 教授 山岡𠮷生先生

話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!

どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
NHK BSヒューマニエンス

今回は【大分大学医学部 環境・予防医学講座 教授】の山岡𠮷生 先生のインタビューです!

テーマは 第3回「自分の研究を世界の最前線で試したい」をお話しいただきます。

プロフィール

名前
山岡(やまおか)𠮷生(よしお)
病院名
大分大学
所属
環境・予防医学講座 教授
経歴
  • 1961年に滋賀県大津市で生まれる。
  • 1979年に京都大学工学部に入学し、1983年に京都大学工学部を卒業する。
  • 1983年に京都大学大学院工学研究科に入学する。
  • 1984年に京都府立医科大学に入学する。
  • 1990年に京都府立医科大学を卒業し、京都府立医科大学附属病院研修医となり、第三内科に勤務する。
  • 1991年に大津市民病院研修医となり、消化器内科に勤務する。
  • 1993年に京都府立医科大学大学院に入学し、1997年に京都府立医科大学大学院を修了する。
  • 1997年に米国のベイラー医科大学に留学し、消化器内科のポスドクとなる。
  • 2001年にベイラー医科大学消化器内科講師、2002年にベイラー医科大学消化器内科助教授、2004年にベイラー医科大学消化器内科准教授となる。
  • 2009年に大分大学医学部環境・予防医学講座教授に就任する。
  • 2010年にベイラー医科大学消化器内科教授に就任する。
  • 2019年から2021年まで大分大学医学部長を務める。
  • 2021年に大分大学理事、副学長に就任する。

2006年から2007年までイラン国Shaheed Beheshti医科大学客員教授、2008年から2009年まで北海道大学病院客員臨床教授、2015年からモンゴル国モンゴル国立医科学大学客員教授、2017年からインドネシア アイルランガ大学医学部招聘教授、2019年からタイ タマサート大学医学部ASEAN特任教授、2020年からマレーシア国マレーシア国立サバ大学客員教授を務めている。

─ 留学のきっかけをお聞かせください。

大学院修了後、私は内視鏡診療を続けるか、研究に進むかで大きく悩みました。医師として患者さんに向き合うやりがいもありましたが、青蓮賞をいただいた研究の喜びが忘れられず、「もっと研究を深めたい」という思いが強くなっていきました。前回、ピロリ菌に関する論文が1つだけあったと言いましたが、それを発表したイギリスの先生と学会などでお会いする機会があり、「来ないか」と言われたこともあります。しかし、その先生は基礎医学の先生でしたし、私としては臨床研究的なものに興味があったので、理想と現実が違ったんですね。そこで、偶然ではなく、積極的にベイラー医科大学への道を切り開きました。私は世界的なピロリ菌研究の第一人者であるDavid Y. Graham教授に思い切って自ら手紙を書いたのです。Graham教授は臨床医でもありました。当時の私はまだ若く、アメリカにコネクションがあるわけでもありませんでしたが、「自分の研究を世界の最前線で試したい」という強い思いが手紙を出す原動力になりました。

─ Graham教授からはどのようなお返事が来ましたか。

最初の返事は「無給なら受け入れてもよい」というものでした。それでも嬉しかったのを覚えています。チャンスがあるだけで十分だと感じたのです。しかし、私はそれにとどまらず、自身の博士論文、京都府立医科大学の年間優秀論文賞「青蓮賞」を受賞した論文を同封し、消化器病の世界で最もインパクトのある雑誌であるGastroenterology誌に掲載されたことを伝えました。この論文ではサイトカインの解析を通じてピロリ菌感染の病態に迫った成果をまとめていました。すると、Graham教授から驚きの返答が届きました。「有給で受け入れよう」との申し出だったのです。年額200万円ほどのサポートではありましたが、これは私にとって大きな転機でした。アメリカの地で、世界トップレベルの研究者のもと、有給で研究を行えることになったのです。自分の研究が認められたという実感と異国での挑戦への期待が入り混じった、忘れられない瞬間でした。

─ Graham教授の研究室はどのようなところだったのですか。

普通、日本のお医者さんのアメリカへの留学と言うと、日本でお医者さんをしていても留学先では『Nature』や『Science』に論文を出しているようなラボに入って、どっぷり基礎研究をして、機械のように働くというイメージですが、そこは全く違いました。Graham教授ご自身も内視鏡の医師でしたし、最初の直属の上司はピロリ菌そのものにあまり関心がなく、胃がんの発症をヒト側の因子から解明しようとしていました。ですから、米国での研究生活は決して順風満帆ではありませんでした。

─ そういう環境で、どういう研究を始めていかれたのですか。

私は細菌側からのアプローチが重要だと考え、限られた予算の中でも独自に病原因子の探索を続けました。そうした中で見出したのが「OipA(outer inflammatory protein A)」の発見です。これはピロリ菌が胃上皮細胞に接着するための外膜タンパク質であり、炎症誘導や胃がんリスクにも関与する重要な因子であることを明らかにしました。この研究をさらに深めたいとの思いから、当初予定していた3年間の滞在を延長し、H1ビザを取得して米国に残る決断をしました。このときに京都府立医大に「もう少し残りたい」と言うと、「残ってもいいけど、じゃあさよなら」と言われたわけではなかったのですが(笑)、何となく医局を離れることになりました。

─ それからグラントを獲得されたのですね。

2004年には自ら筆頭研究者としてNIH(米国国立衛生研究所)のR01グラントを獲得し、億単位の研究資金を得て、独立した研究室を構えることができました。Graham教授は有名な臨床家でもあるので、1、2年の留学という形で、日本や韓国など、色々なところから来ていたのですが、私がグラントを取ってからは私のラボにも来るようになりました。日本人はもちろん、中国人やタイ人も来ましたし、そういう人たちに教えて、その人たちが自国に帰っていっても共同研究をしています。今は私が教えた人たちが中国でもタイでも教授になっていますよ。このラボを構えた経験は私の研究者人生における大きな転機となりました。そして2005年、米国での研究活動をさらに長期的に続けたいという思いから、私は永住権(グリーンカード)を取得しました。アメリカで腰を据えて研究に取り組む覚悟が定まった瞬間でもありました。

─ 日本人の研究者がアメリカの大学でラボを持ったり、グリーンカードを取得したり、教授に就任するのは珍しいことですよね。

私のほかにもいらっしゃいましたが、ヒューストンでも2、3人ですね。そのままアメリカにどっぷり浸かる人もいます。私の場合は研究費を取れて、独立もできました。給料も最初は200万円でしたが、アメリカの場合は給料は大学からもらえるわけではないので、研究費の中から自分の給料を出します。それで研究費を取れたので、それなりの給料になりました。そして、グリーンカードを取得した翌年に新たな病原因子「DupA(duodenal ulcer promoting gene A)」を発見しました。これは十二指腸潰瘍の発症に関わるピロリ菌遺伝子であり、特定の臨床病型との関連を初めて明確に示した研究として、国際的にも大きな注目を集めました。この米国での12年間は最も刺激に満ちた時間でした。仮説を立て、検証し、論文として世界に問いかける。その一連の流れを自分の裁量で推進できたことは、私の研究者としての礎を築いた非常に貴重な経験だったと感じています。

─ ヒューストンでの暮らしはいかがでしたか。

ヒューストンでは、妻と2人暮らしでした。妻は家にいて、私はほとんど研究室にいました。朝から晩まで実験して、長くなると夜中まで実験していたので、私が大学で倒れているのではないかと妻から心配されたこともあります(笑)。ヒューストンは暑い街ですし、治安も良くありません。幸い私たちは10年以上いて、危ない目に遭ったことはないのですが、日本人の中には危ない目に遭った人もいます。ただ、「外を歩くな」と言われたことがあり、家と大学病院までは歩いても10分ほどの距離なのですが、車で行き来していました。アメリカでは当然ですが、役所での手続きも英語ですし、役所に行ってもその日のうちにできることはなく、免許証の切り替えなどにも時間がかかります。今は日本語をさっと英語に変えてくれる機械もあるし、インターネットも発達して、普通のニュースもオンタイムに分かりますが、当時はそういう情報もなかったので、日本人が固まる傾向もありました。今から思えば、もう少し色々なところに遊びに行ったりすれば良かったのかもしれませんが、当時は何となく必死でした。

大分大学の教授に就任する

─ 大分大学に着任されたきっかけはどのようなものだったのですか。

ベイラー医科大学での生活も10年を迎えた頃、NIHグラントの更新申請に追われていた私に、大分大学から「ぜひ本学でピロリ菌研究を担ってほしい」という誘いが届きました。大分大学はピロリ菌研究で国内外に知られた拠点の一つであり、私自身もその存在を以前から認識していました。当時、NIHのR01更新は採択率がわずか5%前後という厳しさで、「そろそろ日本に戻るのも一つの選択肢かもしれない」と心が揺れ始めていた時期でした。一方で、アメリカでの研究活動を完全に手放すことには躊躇いもありました。そんな中、大分大学の側から「アメリカの職も続けて構わない」「医学生の授業も年2週間の短期集中だから」という柔軟な提案をいただき、教授選に応募することを決意しました。実は大分には親戚がいるなどの縁があるわけではなく、全くの新しい土地だったのですが、来てしまいました(笑)。

─ どういった講座を受け持たれることになったのですか。

私が着任する予定の講座は「公衆衛生学第2講座」でしたが、より現代的で臨床と研究の両立に即した名称が望ましいと考え、「環境・予防医学講座」へと名称変更をお願いし、受け入れていただきました。しかし、後になって知ったのは、当時その講座には教授も准教授も不在で、実質的に誰もいない「空白の講座」であったという事実でした。教授選ではほかの候補もいたようですが、最終的に選考に勝ち残り、2009年4月に大分大学へ単身赴任しました。ヒューストンの自宅や研究室の後片付けは妻に任せ、私は一足先に大分へと移動したのです。着任初日、「医学生の授業は2週間だけ」という話を信じていた私に「実はこれから毎週金曜日に看護学科の授業がある」と告げられたときには正直「少し騙されたかな」と思いました(笑)。さすがにすぐに公衆衛生の授業ができるはずもなく、その年は夏に短期集中講義を行うことで、納得してもらいました。講座には職員は一人だけ、研究室には前任の先生が残した資料や備品が山積みされており、砂ネズミのホルマリン漬けまで見つかる状態で、まずは数カ月かけて掃除をするところからのスタートでした。しかし、私を呼んでくれた消化器内科の教授が、彼の講座に所属していた大学院生を一人、私のもとに配属してくれました。また、助教も消化器内科の先生が手伝ってくださり、徐々に形が整っていきました。

─ 最初は大変だったのですね。

幸運だったのはベイラー医科大学在籍時に大分大学の先生方と共同申請していた大型研究費が私の赴任と同時に採択されたことです。お蔭で初年度から研究資金にはある程度余裕があり、研究活動を軌道に乗せることができました。一方、ベイラー側の研究室には私の部下であるイタリア人研究者やパキスタン人研究者が残り、日米の二拠点体制で研究を続けることができました。大学院教育については国内の医師が進学を希望する例は非常に少なく、そこで私は海外からの留学生の受け入れを積極的に進めることにしました。最初はベトナムから、次にタイ、モンゴル、インドネシアと広がり、さらにネパール、パキスタン、ブータン、コンゴ民主共和国、カザフスタンなどへとネットワークを拡大し、現時点でも12人の国費留学生が私の講座で研究を行っています。彼らは単なる「学生」ではなく、将来の自国における中核的研究者や医師としての成長を目指しており、私にとっても大きな刺激となっています。

─ 2021年には医学部長に就任されました。

コロナ禍という未曽有の状況の中で医学生の教育や地域医療体制の維持、国際交流の継続に尽力しました。さらにその後は大分大学の理事、現在は国際戦略を担当する副学長として、大学の経営やグローバル展開にも携わっています。こうした活動の一環として、私は2021年10月に「グローカル感染症研究センター(Research Center for Global and Local Infectious Diseases)」の立ち上げを主導しました。このセンターは「グローバル」と「ローカル」の融合を理念とし、ピロリ菌を中心とした感染症研究を通じて、地域医療と世界的な学術研究の双方に貢献することを目的としています。また大分大学には理工学部の先生方を中心にした大分大学減災・復興デザイン教育研究センターというものがあり、それと病院としての救急部門、感染症への危機管理、そして自然災害への危機管理を合わせた上位組織であるクライシスマネジメント機構というバーチャルな組織があります。私はその機構長も務めています。一方、SATREPSやAMEDなどの国際共同研究プロジェクトも多数進行中であり、特にアジア・アフリカとの連携においては日本有数の感染症研究拠点となりつつあります。