記事・コラム 2025.06.24

プロフェッショナルインタビュー

【第2回】アスリートの腰痛についてはまだ解明されていないことが山ほどある。



数々の人気番組に出演し、大きな反響を呼んだ医師の方々に直接インタビューをいただく、 「プロフェッショナルインタビュー」シリーズ! 番組では語り尽くせなかった日常の葛藤や、医師としての信念、そして未来への展望とは――。

【出演番組一部抜粋】 NHKプロフェッショナル仕事の流儀・世界一受けたい授業・たけしの家庭の医学・主治医がみつかる診療所・NHKあさイチ

今回のゲストは、徳島大学病院の「西良 浩一」教授です! テーマは 第2回「アスリートの腰痛についてはまだ解明されていないことが山ほどある」をお話しいただきます。

プロフィール

名 前 西良(さいりょう )浩一(こういち)
病院名 徳島大学病院運動機能外科学
所 属 整形外科
資 格
  • ・日本整形外科学会(代議員)
  • ・日本脊椎脊髄病学会(評議員)
  • ・日本整形外科スポーツ医学会(第44回会長)
  • ・日本低侵襲脊椎外科学会(代表幹事、第22回会長)
  • ・日本腰痛学会(理事、第31回会長)
  • ・日本Fullendo-KLIFを語る会(代表世話人)
  • ・日本脊椎スポーツ研究会(共同代表世話人)
  • ・International Society for Study of the Lumbar Spine: ISSLS(active member)
  • ・International Society for the advancement of the spine surgery: ISASS(member)
  • ・International Society of Endoscopic Spine Surgery: ISESS(Board member candidate)
  • ・International Society for Minimal Intervention in Spinal Surgery: ISMISS(Asia representative)
  • ・Asian Congress Minimally Invasive Spine Surgery :ACMISST(Board member, Japan representative)
  • ・Pacific Asian Society for Minimally Invasive Spine Surgery: PASMISS(Board member)
  • ・World Congress Minimally Invasive Spine Surgery :WCMISST(Congress President 2021)


経 歴
  • 1963年 香川県高松市で生まれる。
  • 1988年 徳島大学を卒業する。
  • 1994年 徳島大学大学院を修了し、博士(医学)を授与される。
  • 1995年 米国アイオワ大学脊椎センターに留学する。
  • 1997年 帰国し、徳島大学整形外科医員となる。
  • 1998年 徳島大学整形外科助手となる。
  • 1999年 徳島大学整形外科講師に就任。
  • 2003年 米国オハイオ州トレド大学脊椎センター&オハイオ医学総合大学(現トレド大学医学部)整形外科に留学する。
  • 2006年 帰国し、徳島大学大学院運動機能外科に講師として復職する。
  • 2008年 日本整形外科学会脊椎内視鏡手術・技術認定医(後方手技)の認定を受ける。
  • 2010年 帝京大学医学部附属溝口病院准教授に就任する。
  • 2013年 徳島大学運動機能外科学(整形外科)教授に就任する。
  • 2022年 徳島大学医学部長補佐に就任する。
  • 2022年 徳島大学病院病院長補佐に就任する。
  • 2023年 徳島大学病院副病院長に就任する。
  • 2025年 徳島大学病院病院長に就任する。



大学院や留学先で学ぶ


ー大学院進学を決めた理由をお聞かせください。

 大学院や留学については最初はあまりピンときていませんでした。大学院に進む気も全然ありませんでしたし、むしろ「実家が裕福ではありませんでしたので、仕事して、給料を稼がなければならない」という思いが強くありました。

ただ、私がスポーツ医学をやりたいという気持ちになっていた頃に、徳島大学でスポーツ医学の大学院を始めるという話が持ち上がったんです。当時、大学院生はずっと脊椎外科の研究をしているような状況でしたが、井形高明教授(当時)から「まずは大学院に入って、スポーツ医学を研究してみたらどうだ」と提案されました。そのタイミングは本当に絶妙で、「これはいい機会なのではないか」と思うようになりました。

もちろん、金銭的な問題から、進学にはかなり悩みました。しかし、折角の話ですし、博士課程というのは日本での最高学府です。一番上の学位を目指し、そこで学びを深めることに意義を感じました。「いつかは博士号を取らなければ」と心の中で思っていたこともあり、悩み抜いた末に卒業後直ちに大学院進学を決意しました。



ー腰のスポーツ医学との出会いはどのようなものでしたか。

 大学院では4年間、スポーツ医学を学び、その後は外傷の勉強をしていました。当時はまだ若手でしたから、救急車で運ばれてくる外傷の患者さんを診たり、怪我の治療にあたる研修を鳴門病院でしていたんです。

そんな中、突然、留学の話が舞い込んできました。スポーツ医学といえば肩や膝が有名で、当時も今もその分野がスポーツドクターの中心です。腰のスポーツドクターは本当に少なかったんです。

私は大学院では野球肘の研究をしていたのですが、「アスリートの腰痛をやりなさい」と突然言われて、そこから話が進み、「まずはアメリカに行って、分離症の生体力学を勉強してこい」と言われたときは本当に驚きました。腰のスポーツ障害の勉強なんて全くしていなかったので、戸惑いが大きかったです。それでも1995年から1997年、アイオワ大学で腰の研究に取り組み、生体力学を学びました。

そして日本に帰国してから腰の専門医としてやっていくようにと言われました。この経験は非常に興味深く、私にとって大きな転機になりました。アイオワ大学では「分離すべり」とは何かを研究し、腰に関する知識を深めました。それまで野球肘の研究班にいた身としてはいきなり腰に転向することやアメリカでの学びなど、驚きの連続でしたが、それが私のキャリアに大きな影響を与えてくれました。




ー異例のタイミングでのアメリカ留学だったのですね。

 これは自分でも特例だったと思います。医師になって7年目、31歳くらいのときに「次はアメリカに行け」と言われたんです。

今なら専門性をある程度身につけてから「肘や腰などの分野をさらに究めるためにアメリカに行く」というケースが多いですよね。徳島大学整形外科でも今ではそういった形が一般的です。

しかし、腰のスポーツドクターになる前に「アメリカで勉強してこい」と言われたわけですから、今から振り返れば本当に異例でした。このようなタイミングでの留学は珍しく、大きな挑戦でしたが、それが今の私に繋がっていると感じます。




ー生体力学への挑戦はいかがでしたか。

 本当に大変でした。まず、生体力学というのは物理の分野ですので、私にとっては苦手分野でした。

私が取得した博士号は運動生理学で、生理学を専門にしていたんですよ。それなのに、博士号を取った直後にいきなり物理の世界に飛び込むことになりました。

例えば「ニュートン」「トルク」とか言われてもすっかり忘れていましたし、「ストレス」や「応力解析」といった新しい概念に触れるのも初めての経験でした。それでも、腰の動きを具体的に分析して、「トルクがいくら」「どれだけストレスがかかっているのか」といったことを学ぶことで、視野が本当に広がりましたね。これらの挑戦を通じて、知識を広げられる機会に恵まれました。




ー2003年、再びアメリカへ渡った理由をお聞かせください。

 日本に戻って、いわゆるスポーツドクター、脊椎ドクターとしてのキャリアが始まりました。

しかし治療を続けていく中で、教科書には載っていない謎が数多くあることに気づきました。特に腰痛の分野、さらに言えばアスリートの腰痛についてはまだ解明されていないことが山ほどあるんですよね。

そこで、自分なりに仮説を立てて、それを力学的に解析していくのも面白いのではないかと考えるようになりました。そこで、色々と調査した結果、トレド大学がその研究に最適だと感じました。国内で研究を続けるという選択肢もありましたが、英語をさらに上達させたいという思いもあり、「もう一度アメリカに行こう」と決めたんです。

大変でしたが、頑張って準備を進め、2回目の留学に挑むことになりました。再び学びの場に戻るという決断は簡単ではありませんでしたが、それが自分の研究と成長に繋がる大きな一歩だったと思います。




ートレド大学での新たな挑戦はどのようなものでしたか。

 実はアイオワ時代のボス・ゴエル教授がトレド大学に移籍していたんです。そこでは生体力学に加えて、生物学バイオロジーの研究にも力を入れ、新しいことに挑戦していました。それに加えて、スタッフも慣れ親しんだ顔ぶれだったので、環境的にもスムーズに移行できるだろうと思いました。英語もアイオワでの経験を通じて、それなりに話せるようになっていたことも後押しになりました。

そして、何より大きかったのは2回目の留学ではしっかりと給料がもらえるという話だったことです。医師の留学は給料があまり出ないのが一般的で、アイオワのときはほとんど自費で行ったのですが、2回目はその負担が軽減されたのも決断を後押しする要因になりました。