
数々の人気番組に出演し、大きな反響を呼んだ医師の方々に直接インタビューをいただく、
「プロフェッショナルインタビュー」シリーズ!
番組では語り尽くせなかった日常の葛藤や、医師としての信念、そして未来への展望とは――。
【出演番組一部抜粋】
NHKプロフェッショナル仕事の流儀・世界一受けたい授業・たけしの家庭の医学・主治医がみつかる診療所・NHKあさイチ
今回のゲストは、徳島大学病院の「西良 浩一」教授です!
テーマは 第1回「この病気なら私が日本一治せる」をお話しいただきます。
プロフィール

名 前 | 西良(さいりょう )浩一(こういち) |
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病院名 | 徳島大学病院運動機能外科学 |
所 属 | 整形外科 |
資 格 |
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経 歴 |
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整形外科を学び、スポーツドクターを目指す
ー医師を目指したきっかけをお聞かせください。
私の父は薬剤師でしたが、私は子どもの頃から医師はすごいなと漠然と感じていました。
病気を治す人って、子どもながらに分かりますよね。ただ、その時点では「自分が医師になるべきだ」とは思っておらず、「病気を治してくれるすごい人」ぐらいの認識でした。それが小学校5年生か6年生のときに『ブラック・ジャック』が学校で流行り、それを読んで「やっぱり医師はかっこいいな」と思いました。加えて、父が薬剤師だったことも影響しています。
当時は医学部、歯学部、薬学部のことを「医歯薬」と呼んでいました。それで父から「医歯薬のどれかを目指せ」と言われ、それが心に残っていました。
歯科にはあまり行ったことがなかったのですが、病院には子どもの頃から行く機会があったので、医師のほうが身近に感じたことと『ブラック・ジャック』の主人公が医師だったことが決め手になりました。薬剤師を主人公にした漫画はあまりないし、歯科医師や獣医師を題材にした漫画も少ないです。でも医師を扱う漫画は多く、中でも『ブラック・ジャック』の存在は特別に大きかったです。そうした背景があり、自然と医師を目指すようになりました。
ーそれで徳島大学に進学されたのですね。
私が生まれた頃、四国には徳島大学にしか医学部がありませんでした。その後、愛媛、高知、香川と順に医学部ができていったんです。これはおそらく田中角栄さんの日本列島改造論の影響でしょう。
香川医科大学(現 香川大学医学部)が設立工事が開始されたのは私が中学2年生のときと記憶してます。その頃、担任の先生に「医学部に行きたい」と相談したら、「香川に医科大学ができるぞ」という話を聞いたことを覚えています。ただ、香川医大はまだ新しく、私が大学受験する頃で3期生ぐらいでした。
高校に入ってみると、進学校ならではの情報で「この大学を出たら、この県ではこういう医師になれる」というようなことが分かってきました。香川県で医師を目指すならば岡山大学か徳島大学というのが当時の認識でした。そのうえ、私自身の得意、不得意科目も大きな要因
になりました。私は物理が少し苦手で、化学が得意だったんです。徳島大学では化学か物理かのどちらか1科目でよかったんです。それで私は受験の条件が自分に合っていた徳島大学を選びました。
ーなぜ整形外科を専攻しようと決めたのですか。
色々な理由があります。私は体操部に所属していて、器械体操をしていました。体操部では部活動中に骨折や怪我をする部員が多かったんです。それを横で見ていて「医学生だったら、怪我を診られるだろう」
と言われることがよくありました。
もちろん実際には医学生が診療できるわけではないんですが、骨折した人がいるとすぐに呼ばれて「ちょっと見てくれ」と言われることがあったりして、そのたびに「病院に行ってほしい」と思っていました(笑)。でも、そういう経験の積み重ねで「スポーツで怪我をした人を診られる医師になりたい」「自分の手で治したい」という思いが芽生えたんです。
医学部の6年生になったとき、色々な診療科を見て回る中で迷ったのは産婦人科、腹部外科、そして整形外科でしたが、最終的に私の心に一番響いたのは「スポーツ医学」という言葉でした。この言葉が私に自然にフィットしたので、整形外科を選び、スポーツドクターになりたいと思うようになりました。スポーツに関連した怪我を診て治すこと、そこが私の原点であり、目標
になりました。

ーそれで、スポーツドクターを目指されたのですね。
スポーツドクターには2種類あります。一つは現場で選手たちに寄り添って、一緒に動いていくタイプ、もう一つは病院などで選手を診るタイプです。
現場で活動する医師はニーズが高いですが、情熱がないとなかなか現場に行けません。例えば、私自身は体操部だったので、「体操の大会があるから、現場でドクターをやってくれ」
と依頼されることが多くありました。年に1回はNHK杯での会場ドクターをしていましたが、地方の医師には大変でした。大会会場の多くは東京だからです。また、野球やサッカーの帯同でしたらかなりの時間を費やします。現場に行くスポーツドクターは大変だと思います。
夜遅くなることも多いですし、負担が大きいです。地元のチームのスポーツドクターとして地元で活動するなら時間も取れそうですが、侍ジャパンのような全国レベルのチームに関わって世界中を旅するとなると、勤務医をしてますと、ハードルはかなり高くなります。
ー先生は病院にいるほうのスポーツドクターを目指されたのですね。
そうです。私の場合は現場に行くよりも自分のスキルを磨いて、日本中のアスリートから腰痛なら私に診てもらいたいと思ってもらえるような存在になることを目指しました。
現場での役割は現場担当のドクターに任せ、私は病院で構えて治療に専念する道を選んだんです。その代わり、スキルを徹底的に磨いて「この病気なら私が日本一治せる」
という自負を持てるよう努力してきました。
現場には帯同しませんが、要請があれば、トップアスリートでも、高校生でも、小学生の部活動の選手であってもサポートします。スポーツ選手に対しては小学生のアスリートであっても、スポーツ医学の力での予防と治療が必要です。
私としてはスポーツドクターには現場には行かず、スキルを極めて病院で治療に集中するスタイルと、現場に赴いて選手をサポートするスタイルの両方があっていいと思っています。
ー現在はどちらのプロチームを担当されているのですか。
現在でも続いているのは北海道日本ハムファイターズと読売ジャイアンツです。
ただ、私自身は北海道や東京に頻繁に行けるわけではないので、現場対応のスポーツドクターではありません。それぞれの現場にはチーム専属のスポーツドクターがしっかりとついています。
私の役割は現場で対応しきれない専門的な部分を補うこと
です。私は腰痛を専門に診ているので、選手が腰痛で手術が必要になった場合には徳島まで来てもらって対応しています。そういった形で、遠方からでもサポートを続けています。しかしながら、それ以外でも要請があれば応じています。最近では、バレーのSVリーグや、サッカーJリーグの選手の対応も多くなっています。
ープロ選手を診るようになったきっかけはどういったことでしたか。
スポーツドクターとして、当初はずっと徳島県内の部活動に励む子どもの腰痛治療を行っていました。しかし、2006年頃から少しずつ状況が変わってきました。
その頃、まずプロゴルファーの奥田靖己さんの治療を担当しました。そして、翌年の2007年頃には巨人軍の高橋由伸さんの腰痛治療にも携わることになりました。
高橋由伸さんの腰痛はそれまで原因不明と言われていたものだった
のですが、その治療をきっかけにプロと呼ばれる選手たちが少しずつ徳島を訪れるようになりました。この流れが私のスポーツドクターとしての新たな一歩に繋がったように思います。
