講師 舩越 園子
フリーライター
東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。
在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。
『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。
アトランタ、フロリダ、ニューヨークを経て、現在はロサンゼルス在住。
第72回
今年からPGAツアーでは、トッププレーヤーが一堂に会する試合を増やす目的で、従来のいくつかの大会を賞金総額2000万ドル級に引き上げる「格上げ大会」のシステムを導入している。
5月上旬に開催されたウエルスファーゴ選手権は、今季9つ目の「格上げ大会」だった。最終日に栄えあるタイトルと360万ドル(約4億8670万円)のビッグな優勝賞金を競い合ったのは、ともに米国人のウインダム・クラークとザンダー・シャウフェレの2人。
どちらも29歳の同い年で、クラークはオレゴン大学、シャウフェレはサンディエゴ州立大学のゴルフ部で、かつて凌ぎを削り合った仲だった。
とはいえ、シャウフェレはすでに通算7勝を挙げ、世界ランキングは5位に付けているのに対し、クラークはいまなお未勝利で、世界ランキングは80位。
実績から見れば、シャウフェレが有利であると誰もが思う状況だった。しかし、蓋を開けてみれば、クラークがシャウフェレを4打差で抑え込む圧勝だった。
悲願の初優勝を挙げたクラークは感無量の様子。そんなクラークを、敗北したシャウフェレが心から祝福し、同世代のツアー仲間たちからも次々に「おめでとう」のメッセージが寄せられた。
そのワケは、もちろん、クラークがプロ転向から5年の歳月を経てようやく勝利を挙げたからなのだが、実を言えば、その背景にはもう1つ理由があった。
クラークが大学時代から悲しみを乗り越えながら歩んできたことを、シャウフェレをはじめとする同世代の仲間たちは知っていた。だからこそ、彼らは、ようやく笑顔を輝かせることができたクラークに「本当に良かったね」「安心したよ」という言葉を贈ったのだ。
「優勝して財団を立ち上げる!」
クラークはコロラド州デンバーで生まれ育ち、幼いころからジュニアゴルフの世界で頭角を現した。
ハイスクール・ゴルフで活躍し、大学はゴルフの名門であるオレゴン大学へ進学。カレッジゴルフの大会でも活躍し、数々のタイトルを獲得して輝いていた。
しかし、クラークが19歳だった2013年に最愛の母セベネットが乳がんと診断され、55歳の若さでこの世を去った。
セベネットは「とても美しい女性だった」と、彼女を知る人々は口を揃える。クラークにとって、そんな母親は「いつも僕が歩むべき道を示し、僕を励ましてくれた大切な存在だった」。
母親を失った現実をクラークはなかなか受け入れることができず、しばらくはゴルフにまったく集中できなかったそうだが、そんなとき、親身になってクラークを支えたのが、当時のオレゴン大学ゴルフ部の監督だったケーシー・マーチンと副コーチだったジョン・エリスの2人だった。
マーチンは、歩行を重ねると足が腫れ上がってしまう先天性の障害があることから、かつてPGAツアー選手になった際に試合における乗用カートの使用を求め、PGAツアーと法廷で争った選手だ。エリスも元PGAツアーで戦った選手だった。
マーチンとエリスは、母親を亡くしてふさぎ込んでしまったクラークを放っておけなくなった。そんな2人に励まされ、立ち直っていったクラークは、「大学を卒業したらプロ転向してPGAツアー選手になる。優勝して、その賞金で乳がん撲滅ための財団を立ち上げる」ことを目標に掲げ、前を向いたそうだ。
「やっと実現できる」
下部ツアーでの下積み時代を経て、クラークがPGAツアーにたどり着いたのは2017年。以後、同年代の仲間たちが順調に勝利を重ねていく中で、クラークはなかなか勝利が挙げられなかった。
優勝して母の命を奪った乳がんを撲滅するための財団を設立したいという想いが強すぎたのか、クラークのゴルフは試合になると乱れ、「泣きたい、クラブを折りたいと、何度思ったことか。実際、クラブを折ったことは、これまで何度もあった」
なぜ、試合で実力を発揮できないのか。なぜ、勝てないのか。
その原因は自分のメンタル面にあると気づいたクラークは、メンタルトレーニングを受け、我慢強くプレーすることをようやく覚えた。
その成果は少しずつ結果に反映され、今季は成績がアップし始めていた。
そして迎えた5月のウエルスファーゴ選手権では、最終日を2位に2打差の単独首位で迎えたが、出だしからいきなりボギー発進。あっという間にシャウフェレに並ばれた。
それでもクラークは心を乱されることなく耐え、8番のバーディーで再び単独首位に立ち、10番からの4つのバーディーでリードを広げていった。
最終18番でクラークのティショットは右に飛び出し、フェアウエイバンカーにつかまった。しかし、すでに5打差を付けていたクラークは、冷静にレイアップしてボギー・フィニッシュ。それでも4打差の圧勝だった。
「勝てなかったこの5年間は長かった。でも、待ったかいがあった。今日の僕のメンタル面はスーパー・ストロングだった。よく耐えたと思う。今は亡き母は、この場にはいないけど、きっと僕を見ていてくれたはずだ」
夢にまで見た初優勝。そして、生まれ始めてオーガスタ・ナショナルへの切符も手に入れたクラークだが、彼がそれ以上に喜んだのは、天国で眠る母を想いながら、乳がん撲滅のための財団を創設するという夢を叶えられることだ。
「やっと実現できる」
そんなクラークの勝利だからこそ、敗北したシャウフェレも仲間たちも、彼の勝利と夢の実現に拍手を送ったのだ。
クラークの母セベネットも、空の上から「おめでとう」とたたえ、そして母親を想いながら財団設立を目標に戦っている息子に「ありがとう」と言っていたのではないだろうか。