講師 舩越 園子

フリーライター

東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。

在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。

『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。

アトランタ、フロリダ、ニューヨークを経て、現在はロサンゼルス在住。

世の中がパリ五輪に沸いていた今年8月、ゴルフ界のレジェンド、プエルトリコ出身のチチ・ロドリゲスが、ひっそりと天国へ旅立った。

PGAツアーで通算8勝を挙げたロドリゲスは8月8日に88歳で逝ってしまったが、そんなふうに「8」づくめで息を引き取ったところに、ツアー屈指のショーマンとして絶大なる人気を誇った「彼らしさ」を感じずにはいられなかった。

ロドリゲスの若かりし日々を知るゴルフファンは、米国でも日本でも世界でも、もはや多くはないだろう。今、こうして彼のことを書いている私自身、彼の現役時代のプレーをこの目で見たことは一度もなかった。

しかし、日本のゴルフ界が石川遼ブームで盛り上がっていた2012年、石川を取材する目的でPGAツアーのプエルトリコオープンに初めて足を運んだら、期せずしてロドリゲスを間近に見る好機に恵まれた。

「現役最後のラウンド」ということで、故郷の地でゴルフクラブを振るロドリゲスに、人々は熱い視線を注ぎ、彼の一挙手一投足に「チチ!チチ!」の呼び声が鳴り響いた。

その熱狂ぶりは、黄金時代のタイガー・ウッズに興奮する大観衆の狂喜を上回るほどで、居合わせた私は大いに驚かされ、私の目はロドリゲスと人々との交流に釘付けになった。

ロドリゲスはPGAツアー通算8勝だが、メジャー優勝は一度も挙げられなかった。50歳から臨んだチャンピオンズツアーでは通算22勝を掴み取ったが、シニアの世界でもメジャー・タイトルを手に入れることはかなわなかった。

しかし、それでもロドリゲス人気が絶大だったのは、なぜなのか。故郷プエルトリコの人々が狂信的とも言えるほど、彼を慕い、讃え続けたのは、なぜなのか。

そのワケは、ロドリゲスの壮絶な生い立ちと、社会貢献に何よりも力を注いだ彼の生き方にあった。

「剣の舞い」に秘められた想い

1935年、プエルトリコで6人兄弟の1人として生まれたロドリゲスの家庭は、とても貧しかったそうだ。

父親が牛やニワトリの世話をして得ていた賃金は1週間にわずか18ドル。家計を助けるため、ロドリゲスは7歳からサトウキビのプランテーションで水運びの仕事をした。

だが、ある日、ゴルフ場でキャディとして働けば、水運びより多くのお金がもらえると知ったロドリゲスは、すぐさまキャディに転身。ゴルフを目で見て学び、「木の枝で空き缶を打って練習した」という逸話もある。

我流ながら上達はきわめて早く、9歳で上級レベル、12歳で「67」をマーク。19歳で米陸軍に入隊後は、休日には必ず近郊のゴルフ場へ出向いて腕を磨いた。

1960年にプロ転向。1964年ウエスタンオープンでは、アーノルド・パーマーを1打差で破って勝利し、ロドリゲスの名は全米に知れ渡った。1972年のバイロン・ネルソン・クラシックでは、当時の強豪ビリー・キャスパーを撃破。そうやって勝利を重ねていった一方で、メジャー大会では、どうしても勝てず、1981年全米オープン6位タイが自己最高位に終わった。

シニアの世界でも、1991年全米シニアオープンでジャック・ニクラスと18ホールのプレーオフを戦い、メジャー初優勝に迫ったが、勝利したのはニクラスだった。

しかし、メジャー優勝は挙げられずとも、ロドリゲスが披露していた独特のパフォーマンスが、彼の名を広め、人気を高めていった。

バーディーパットを沈めるたびに、刀に見立てたパターをサムライのごとく振り下ろし、鞘に収める「スウォード・ダンス(剣の舞い)」は、ギャラリーを大いに沸かせた。

ボールをカップに沈めると、「パナマ帽」と呼ばれていたトレードマークの麦わら帽子を取って、大急ぎでカップに被せた。

ティーンエイジャーの時代に5セント、10セントを賭けて大人とパット勝負をしていたロドリゲスは、「1打1打が真剣勝負」「稼いだお金は絶対に奪われないよう守る」と思っていたそうで、剣の舞いも、カップを帽子で覆うことも、そうした想いの象徴だったのだ。

「でも、帽子を被せることは、グリーンにダメージを与えるからやめてくれと、PGAツアーのオフィシャルから何度も叱られた」という秘話を、いつだったか、ロドリゲスは苦笑しながら明かしていた。

「それが私の使命だ」

プロゴルファーとして大成功したロドリゲスが「私の人生の転機だった」と振り返っていたのは、1979年のマザー・テレサとの出会いだった。

「大勢の人々からたくさんのヘルプを受けてプロゴルファーになったアナタが、これから誰をどんなふうにヘルプするのかを楽しみにしています」

マザー・テレサからそう言われて「ハッとした」というロドリゲスは、直後に「チチ・ロドリゲス青少年財団」を創設。フロリダ州を拠点として、アフター・スクール・プログラムを開始した。

貧困や家庭内暴力などで苦しんでいる子どもたちに救いの手を差し伸べ、育成していくそのプログラムは、自分が味わった幼少期の苦しみを他の子どもたちには味わわせたくないと願うロドリゲスの想いの結集だった。

ロドリゲスの活動にすぐさま賛同したのは、「戦友」ニクラスだった。2人はそれぞれの名前と愛称を冠した「チチ&ベアーズ財団」を立ち上げ、子どもたちを救う活動を広げていった。

すると、1993年全米プロ覇者のポール・エイジンガ―も名乗りを上げ、「チチ&ジンガー財団」も設立されて、活動はさらに拡大されていった。

ロドリゲス自身は故郷プエルトリコに多大なる寄付を行ない、しばしば現地に赴いて、ジュニアゴルファーとの交流機会を持ち続けていった。だからこそ、彼は「プエルトリコの英雄」として、神様のように崇められていたのだと思う。

社会貢献にそれほど力を注いでいたロドリゲスだったが、1998年には心臓発作で倒れ、生死の境をさまよった。

幸運にも完全回復できたが、2010年には自宅に強盗が押し入り、ロドリゲス夫妻はロープで縛り上げられて、50万ドル相当の金品を奪われる被害に遭った。

それでもロドリゲスは、生まれ付いた環境に苦悩する子どもたちを救う活動を続け、「それが私の使命だ」と言い続けていた。

残念ながらロドリゲスは亡くなってしまったが、彼の想いはニクラスやエイジンガ―らによって継続されていくことだろう。

そして、木の枝で空き缶を打ってゴルフを覚え、スター選手になった「ロドリゲス伝説」は、後世まで語り継がれるに違いない。