講師 舩越 園子
フリーライター
東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。
在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。
『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。
アトランタ、フロリダ、ニューヨークを経て、現在はロサンゼルス在住。
米国チームと世界選抜チームが国と地域の名誉をかけて競い合う2年に1度のチーム対抗戦、プレジデンツカップは、今年はカナダのロイヤル・モントリオール・ゴルフクラブで開催され、その際、世界選抜チームのキャプテンを務めたのは、カナダ出身の54歳、マイク・ウィアだった。
ウィアは2003年マスターズで勝利を挙げたのだが、「カナダ人初、レフティ初のマスターズ・チャンピオン」となった彼は、あのとき世界中から大きな注目を浴びた。
ウィアの優勝後には、フィル・ミケルソンやバッバ・ワトソンもレフティのマスターズ覇者となったが、ウィアが勝利する以前のゴルフ界では「左利きのゴルファーはグレート・プレーヤーにはなれない」「レフティはマスターズには勝てない」などと言われ、実際、多くの人々がそう信じていたように思う。
ウィアは生来の左利きで、ゴルフも幼少期から左打ちで始めたが、13歳のとき、帝王ジャック・ニクラスに手紙を書き、「レフティの偉大なる選手はいないと思うので、僕もゴルフは今のうちに右打ちに変えたほうがいいですか?」とストレートに尋ねた。
すると、ニクラスから返信があり、「変える必要はありません。素の自分のまま、ゴルフを続けなさい」と書かれていたという。
それを読んだウィアは「レフティのままでいいのだと確信でき、それが自信になった。その後は、右打ちに変えようなどとは一度も思わず、レフティのまま、自分のゴルフを磨いていった」。
このエピソードは、ウィアが2003年マスターズを制覇した直後に明かしたもので、以後、米ゴルフ界で語り継がれてきた逸話となっていたのだが、今年のプレジデンツカップの際、この話が再度、米メディアによって報じられ、あらためて大きな話題になった。
地道に進んで、スターへ
古い話になるが、PGAツアーの試合会場で、私がウィアの取材を始めたのは1999年の秋ごろだった。当時のウィアは、まだ広くは知られておらず、無名のカナダ人選手という感じだった。
1992年のプロ転向後、カナディアンツアーで新人賞(1993年)や賞金王(1997年)を獲得したものの、米国のPGAツアーの出場権を得るためのQスクール(予選会)では5回も失敗し、6年がかりで、ようやく米国へやってきた苦労人だった。そんな彼の根性物語に心を惹かれ、私は彼に歩み寄った。
身長173センチで小柄で童顔。PGAツアーでは数少ないレフティで、クラブを腰の高さまで上げる大きなワッグルは、とてもユニークだった。
「カナダとアメリカは同じ英語圏で地理的にも近い。だけど、アメリカ人は椅子から身を乗り出す積極的な気質。カナダ人は椅子の背にもたれながら静観する気質だ」
この言葉には、タイガー・ウッズとウィア自身の比較が込められていた。
「僕はタイガーみたいにセンセーショナルなデビューを飾ったわけじゃないけど、地道に進んで、最後にはスターの座を獲得したい」。
その言葉通り、ウィアは我が道を着々と歩んでいった。1999年のエアカナダ選手権で初優勝を挙げると、2000年にはビッグ大会だったWGCアメックス選手権、2001年にはステイタスの高い最終戦のツアー選手権を制し、徐々に存在感を高めていった。
2002年にはトレードマークのワッグルをやめたことで不調に陥り、未勝利に終わった。だが、秋からワッグルを再開すると、すぐに自分を取り戻し、2003年は春先から早々に2勝を挙げて完全復調。そして同年4月にマスターズを制し、夢にまで見たグリーンジャケットを羽織った。
少年時代はアイスホッケーに熱中だった。「大柄な選手にタックルされたら、必ずやり返した」という負けず嫌いだったそうだ。
2002年にオーガスタ・ナショナルが大改造されて距離が大幅に伸長され、ロングヒッター断然有利と言われた2003年マスターズの直前、小柄でどうしてもパワーが不足するウィアが、それでも「出る以上は絶対に優勝する」と断言したとき、私は秘かに彼に期待を寄せていた。
蓋を開けてみれば、彼はまたしても自身の言葉通り、本当に勝利を挙げて、カナダ人としてもレフティとしても初のマスターズ・チャンピオンに輝いた。
世界のメディアの中には「伏兵のメジャー優勝」と記した人は多かった。しかし私は「とんでもない」と一蹴する記事を書いた。 そう、ウィアは伏兵ではなく、彼の勝利は、まぐれ優勝では決してない。彼は闘志を胸に秘めながらビッグトーナメントを次々に制覇し、マスターズに勝つべくして勝ったのだ。
41年前の手紙は運命的!?
カナダ人として初のマスターズ・チャンピオンに輝き、PGAツアーでも勝利を重ねていったウィアは、2000年と2001年、2003年に、カナダの男性アスリート・オブ・ザ・イヤーを合計3度も受賞した。
2004年には、カナダ・オンタリオ州の市民としての最高の栄誉と言われるオーダー・オブ・オンタリオを受賞。カナダ国民の最高栄誉であるオーダー・オブ・カナダは2009年に受賞し、その年には、カナダのゴルフ殿堂(カナディアン・ゴルフ・ホール・オブ・フェーム)入りも果たした。
PGAツアーでは、通算8勝を挙げ、昨今はシニアのチャンピオンズツアーにも挑んでいるが、一方で、社会貢献にもプロ転向直後から取り組み、マスターズ優勝後は一層、積極的になった。
2004年にはマイク・ウィア財団を設立。肉体的、精神的、あるいは教育上の助けを求めている子どもたちをサポートすることを目指し、毎年、マイク・ウィア・ミラクル・ゴルフ・ドライブ・フォー・キッズというチャリティ・トーナメントを開催。子どもたちへの支援金の寄付を求めている。
2005年にはマイク・ウィア・ブランドのオリジナルワインの販売も開始。売り上げは、すべて自身の財団を通じて、子どもたちのために役立てられるという。
41年前、ウィアとニクラスの手紙のやり取りが無かったら、あるいはニクラスからの返信が異なる内容だったら、その後、ウィアのキャリアと彼の社会貢献はどうなっていたのだろうか。
そう思うと、運命的な何かを感じずにはいられない。