記事・コラム 2024.07.15

ゴルフジャーナリストが見た、プロゴルファーの知られざる素顔

【第85回】P・スチュワートのスピリッツ

講師 舩越 園子

フリーライター

東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。

在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。

『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。

アトランタ、フロリダ、ニューヨークを経て、現在はロサンゼルス在住。

今年6月にノース・カロライナ州の名門パインハーストで開催された全米オープン最終日は、リブゴルフ選手のブライソン・デシャンボーと世界ランキング2位のローリー・マキロイの熱戦となり、米TV中継の視聴率は、この10年間で最高の数字を記録した。

上がり4ホールで3ボギーを喫し、敗北したマキロイは、勝者に「おめでとう」も言わずに去っていってしまったが、ウイニングパットを沈めたデシャンボーは、すぐさまキャップを取り、そのバックベルトに付けていたバッジを見詰めながら、こう言った。

「ここに、ペインが居てくれたおかげで僕は勝つことができた。ありがとう」

そしてデシャンボーは空を見上げ、天国にいる「憧れの人」を、しみじみ想った。

その様子を眺めながら、古くからのゴルフファンは「そうだね。良かったね。ペインもきっと喜んでいる」と頷いたことだろう。

一方、若いゴルフファンは「ペイン?」「誰のこと?」「何がどうなっているの?」と首を傾げてしまったかもしれないと思う。

ペイン・スチュワートとは

「ペイン」とは、1980年代から1990年代に大人気を博し、米国の国民的スターと呼ばれていたペイン・スチュワートのことだ。

スチュワートは1999年の秋に、飛行機事故で突然、この世から消えてしまったが、彼の偉業や思い出は、多くの選手や関係者、ゴルフファンの記憶に留められている。

そして、PGAツアーのホームページの選手紹介欄には、「ペイン・スチュワート」のページが今もある。

1957年にミズーリ州スプリングフィールドで生まれ育ったスチュワートは、サザン・メソディスト・ユニバーシティ(SMU)を経て、1979年にプロ転向。PGAツアー選手となり、1982年の初優勝を皮切りに、次々に勝利を挙げていった。

メジャー大会でも何度も優勝戦線に浮上。1989年には全米プロを制してメジャー初優勝を挙げ、1991年には全米オープンでも勝利を挙げた。しかし、その後は不調に陥った時期もあり、メジャー優勝からは遠ざかっていた。

だが、1999年に再び全米オープン優勝をやってのけ、通算11勝目を達成。握り締めた右拳を前方へ突き出すような独特の派手なガッツポーズ姿は、今では銅像となって飾られている。

その場所が、今年の大会の舞台パインハーストだったのだ。

スチュワートが2つ目の全米オープン・タイトルを獲得した場所で、今年、デシャンボーがやはり自身2つ目となる全米オープン・タイトルを手に入れたことは、不思議な巡り合わせだと感じさせられる。

だが、勝利を決めたデシャンボーが真っ先に「ペイン、ありがとう」と言った背景には、運命や歴史の巡り合わせとはまた別の、深く広い「ペイン・スチュワート物語」があった。

彼こそはスター

在りし日のスチュワートは誰もが認める人気者だった。「ビッグスター」という呼称はスチュワートのためにあると思えるほど、彼は鮮やかなスターだった。

PGAツアーでただ一人、ニッカボッカーズに身を包んで戦っていた。彼自身は「これは僕の舞台衣装だ」と言っていたが、舞台衣装をまとったスチュワートがあまりにもオシャレで素敵だったため、他のスポーツ界からも注目を集め、PGAツアーでは唯一、NFLとスポンサー契約を結んでいた。

明るくユーモラスな人柄で、ファンや他選手、メディアや関係者をいつも笑わせたり楽しませたりしていた。そんなスチュワートは、プレーヤーであると同時に、ファッションリーダーであり、最高のエンタテイナーでもあった。

しかし、1999年10月、スチュワートが乗ったプライベートジェットは、上空を飛行中に機体に亀裂が入り、瞬時に激しい気圧異常が起こって、スチュワートを含めた搭乗者6名全員が死亡する惨事となった。

敬虔なクリスチャンだったスチュワートは、「WWJD (What Would Jesus Do )」と記されたリストバンドをいつもはめていた。操縦者も亡くなったプライベートジェットは、最終的には燃料切れとなってサウス・ダコタの草原に墜落。その墜落現場から、スチュワートの「WWJD」のリストバンドが発見されたときは、米国中、いや世界中が涙を流した。

彼がいなかったら僕はここに居ない

大勢から慕われていたスチュワート自身は、常に大勢の子どもたちや人々を助けたいと願い、助けを求めている子どもたち、困っている人々に優しく手を差し伸べていた。

「社会に恩返しをしたい。人々の役に立ちたい」と考え、愛妻トレイシーとともに積極的に社会貢献活動を行なっていた。

スチュワートの死後は、トレイシー夫人が「ペイン・スチュワート・ファミリー財団」を立ち上げ、亡き夫の強く温かい意思を長女チェルシー、長男アーロンとともに引き継いで活動している。

「キッズ・アクロス・アメリカ」は、生まれ育ったバックグラウンドや人種、国籍にかかわらず、アメリカのすべての子どもたちに幸せな生活を送ってもらうためのサポート・システム。

全米ジュニアゴルフ協会(AJGA)の大会にも資金援助などのサポートを行ない、「ペイン・スチュワート・ジュニア・チャンピオンシップ」が誕生した。

スチュワートの故郷であるスプリングフィールドの町にも、ジュニアゴルフ財団を創設。1人でも多くの子どもたちにゴルフクラブを握ってもらい、楽しさや生きがい、生きる意味や喜びを感じ取ってもらうための活動は、まさにスチュワートの想いを受け継いだものである。

経済的に苦しかった家庭に生まれ育ったデシャンボーも、そんなスチュワートの存在や活動に励まされ、勇気や元気をもらったという。スチュワートの母校であるSMUへ進学したことも、「ペインの卒業校であることを知った途端、僕に同じ大学に進もうと即決したから」だそうだ。

スチュワートのスピリッツと社会貢献活動が、デシャンボー少年を育て、彼を全米オープン・チャンピオンへと導いた。

「ペインが居なかったら、今、僕はここには居なかった」

今年の全米オープン覇者、デシャンボーの言葉を聞いて、天国のスチュワートも感無量だったのではないだろうか。