記事・コラム 2019.08.15

ゴルフジャーナリストが見た、プロゴルファーの知られざる素顔

【第26回】「手作りゴルフ場」から出発したプロゴルファーの社会貢献

講師 舩越 園子

フリーライター

東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。

在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。

『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。

アトランタ、フロリダ、NY、ロサンゼルスを経て、現在は日本が拠点。

 米PGAツアーで9年目を迎えているブレンダン・スチールは現在36歳。米ゴルフ界においても、世界においても、決してその名を轟かせるような華々しいスター選手ではない。平たく言えば、地味な選手だが、米ツアー通算3勝を誇る実力派だ。

 そして、その実力の礎が自宅の裏庭の手作りのゴルフ練習場で築かれたという話を聞いたとき、私は心底、驚かされた。

【裏庭で覚えたゴルフ】

 私がスチールの存在を初めて意識したのは、2015年の秋だった。米ツアーの開幕戦のフライズコム・オープンで首位に躍り出たスチールは会見場に呼ばれた。

 日頃、米メディアからほとんど取材を受けることもなく、ひっそりとプレーを続けてきたスチールである。メディアのほうも、記録やデータ以外に彼に関する情報や知識をほとんど持っておらず、スチールの生い立ちや人となりを探るための質問が相次いだ。

 そうした質疑応答の中で、スチールはこんな言葉を口にした。
「僕が生まれ育ったカリフォルニアの山の中の小さな町には、ゴルフ場が1つも無かった。練習場すら無かったんです」

 それならば、そんな環境の中で育ったスチールは、一体どうやってゴルフの腕を磨き、プロゴルファーになり、そして米ツアーに辿り着いたのだろうか。

 それ以上、追求する質問は出ないまま、その会見は終わってしまった。だが、私は、もっと詳しい経緯をどうしても知りたいと思い、会見場を出たスチールをつかまえ、その場で立ち話をした。

手作りゴルフ場で練習した幼少期

 スチールはにっこり笑い、穏やかな口調で自身の昔話を明かしてくれた。

 「僕は離れて暮らしていた兄の影響でゴルフというものを知ったんだ。兄とは生活は別々だったけど、ときどきお互いに行き来はしていた。

 兄が暮らしていたのは、同じカリフォルニアだけど、やや都会の町だった。兄の家の周りにはゴルフ場がたくさんあって、いつしか僕もゴルフをやってみたいと思うようになった。でも、僕の町にはゴルフ場も練習場も1つも無かった。

 13歳のとき、どうしてもゴルフがしたいと僕が言ったら、父が裏庭にネットを張ってくれた。シャベルで大きな穴を掘り、どこかから手に入れてきた砂を入れて、バンカーも作ってくれた。池も作ってくれた。僕は父がそうやって作ってくれた『裏庭の手作りのゴルフ場』でゴルフを覚えたんだ」

 スチールが生まれ育ったのは、カリフォルニアの深い深い山の中。人口わずか3500人の町は貧しく、高校も無かったそうだ。

 父親が手作りしてくれた裏庭のゴルフ場で毎日一人でゴルフクラブを握り、自己流で練習を続けたスチールは、やがて離れた町の高校へ通うことになった。
「その高校にゴルフ部があった。本物の練習場で初めて球を打った感動は今でも忘れられない」

 部活の早朝練習に参加するため、毎朝、夜明け前に起床。母親がぼろぼろの中古車のハンドルを握り、片道1時間以上をかけて送迎をしてくれたそうだ。
「僕を学校に送り届けた母は、再び家の方まで戻って仕事場に向かい、夕方、仕事を終えると、まだ学校まで僕を迎えに来てくれた」

 両親の苦労や想いを応えるように、スチールはめきめきゴルフの腕を上げていった。

 カリフォルニア大学へ進み、2005年にプロ転向。下部ツアーで6年間の下積み生活を経て、2011年に米ツアーに辿り着き、その年、ルーキーにして初優勝を挙げた。

 私がスチールと立ち話の取材をしたのは、それから4年後のシーズン開幕戦のこと。初日に首位に躍り出たスチールは、残念ながら最終日に崩れ、17位に終わった。唇を噛み締め、無言で去ったスチールの胸の中には「もっと勝ちたい。もっとたくさん賞金を稼いで、一人でも多くの人がゴルフに触れられる環境を作りたい」という想いが溢れ返っていたのだと思う。

ひっそり寄り添う社会貢献

 プロになり、米ツアー選手になり、チャンピオンになったスチールが一番やりたいことは何なのか。

 それは、かつての自分がそうだったように、本物のゴルフに触れる機会がない子供たちに本物のゴルフクラブでゴルフボールを打つ楽しさや素晴らしさを味わわせてあげることだそうだ。

 2011年の初優勝直後から、スチールは故郷の町の近くで低所得者にゴルフ環境を提供するチャリティ団体「グランドファザーズ・フォー・ゴルフ」に多額の寄付を行ない、自らチャリティ大使を務め始めた。

 同団体の創設者、トニー・ビオラ氏と協力し合い、ゴルフを知らない大勢の子供たちと一緒に春夏秋冬のゴルフキャンプにスチールは毎年、チャリティ大使として参加。ゴルフクラブの握り方や振り方を教える一方で、手作りの疑似ゴルフ場から出発して米ツアー選手になった自身の体験談を語っている。そうすることで「きっと誰かに生きる勇気をあげられる」と彼は信じている。

 その後、スチールは2017年と2018年にセイフウエイ・オープンを連覇し、米ツアー通算3勝を達成したが、派手なスター選手たちの合間で、彼は今でも相変わらず目立たない地味な存在だ。

 しかし、彼の社会貢献活動は少しずつ幅を広げている。ここ数年は、米ツアー仲間で2011年の全米プロを制したキーガン・ブラデリーが主宰しているチャリティ・トーナメントに必ず参加し、ここでも多額の寄付とトーナメント参加者たちへの対応を快く受け持っている。

 「グランドファザーズ・フォー・ゴルフ」も、ブラデリーのチャリティ・トーナメントも、どちらもスチール自身が創設したものではなく、別の誰かが主体になって行なっているものだが、そこにひっそりと寄り添いながら活動を支え続けているところが、いかにも謙虚で控えめなスチールらしいなと感じられる。

 プロゴルファーの大半は自分の名前を冠した財団を創設し、自分の名前を冠したトーナメントやイベントを開催する形でチャリティ活動を行なっている。もちろん、そこから社会にもたされるものは、とてもありがたく、意義深い。

 だが、スチールのように自分が一番前面に出ることなく、誰かに協力する形で行なう社会貢献の仕方もある。

 裏庭の手作りゴルフ場から始まって米ツアーに辿り着いたスチールだからこそ、ひっそり地道に歩む中で、何かを見い出し、身に付け、前進していくスタイルが彼にとっては心地良いのかもしれない。

 無理せず、できることから着手していく。米ツアー選手が真摯に取り組むそんな社会貢献を、スチールの生き方の中に垣間見た思いがした。