記事・コラム 2012.09.10

心臓外科医 須磨久善先生の人間録 -名医との想い出-

【第五回】Randas Batista(バチスタ) 先生の思い出

講師 須磨 久善

medock総合健診クリニック

略歴

1974年3月  大阪医科大学卒業

1974年4月  虎の門病院 外科レジデント

1978年4月  順天堂大学 胸部外科

1982年7月  大阪医科大学 胸部外科

1984年1月  米国ユタ大学心臓外科 留学(~1984.6)

1989年2月  三井記念病院 循環器外科科長

1992年5月  三井記念病院 心臓血管外科部長

1994年8月~ ローマカトリック大学心臓外科客員教授

1996年10月   湘南鎌倉総合病院 副院長

1998年1月  湘南鎌倉総合病院 院長

2000年5月  葉山ハートセンター 院長

2005年4月  (財)心臓血管研究所 スーパーバイザー

2012年4月  須磨ハートクリニック 院長

2017年2月  スクエアクリニック 院長

 

所属学会等

・米国胸部外科学会 (American Association for Thoracic Surgery:AATS)
・米国胸部外科学会 (Society of Thoracic Surgeons:STS)
・欧州胸部外科学会 (European Association for Cardiothoracic Surgery:EACTS)
・国際心臓血管外科学会(International Society for Cardiovascular Surgery:ISCS)
・日本冠動脈外科学会(理事)
・日本冠疾患学会(名誉会員)
・日本心臓血管外科学会(特別会員)
・日本心臓病学会
・日本胸部外科学会

 

兼任

・順天堂大学心臓外科客員教授
・香川大学医学部医学科臨床教授

 

プロフィール

海外・国内での学会発表多数。心臓手術症例を5,000以上経験し、1986年に世界に先駆けて胃大網動脈グラフトを使用した冠動脈バイパスを開発し、各国で臨床応用が広まる。1996年、日本初のバチスタ手術を施行。以後拡張型心筋症に対する左心室形成術を多数行う。海外での公開手術多数。「プロジェクトX」、「課外授業-ようこそ先輩」(NHK)などで紹介。テレビドラマ「医龍」、映画「チームバチスタの栄光」等の医療監修を行う。2010年、海堂 尊原作をもとに須磨の功績を描いた特別ドラマ「外科医 須磨久善」が放映。同年、日本心臓病学会栄誉賞受賞。 2012年、自著「タッチ・ユア・ハート」を講談社から、2014年「医者になりたい君へ」を河出書房新社から出版。

Randas Batista(バチスタ) 先生の思い出

手術室でドール先生と

 1994年の夏、私はカトリック大学付属ジェメッリ総合病院に心臓外科客員教授として赴任し、妻と二人でローマに住んでいた。ローマの北西、モンテマリオの丘に聳えるジェメッリ総合病院は2,000床を有するローマ最大の病院でバチカンが全面支援している。法王を始めバチカンの要人達の治療は全てここで行われ、法王が海外に出かける時はこの大学病院の教授達が付き添う。

 この著名な病院に私が招かれたのは、私が考案した新しい冠動脈バイパス手術を教えるためだった。バイパス手術とはその名の通り,詰まりかかった血管に新たな血管を繋いで血液の流れを良くする方法で、狭心症や心筋梗塞の治療法として広く行われている。1970年代に米国を中心に爆発的に広まったこの手術は1980年代中頃に一つの転換期を迎えた。当時一般的に用いられていた大伏在静脈は、手術後10年経つと半数近くが詰まってしまうことが米国・カナダの大規模研究によって解明され、バイパスの効果をより長持ちさせるためには動脈を使ったバイパスの方が優れていることが明らかになった。太さ、長さ、動脈硬化に対する抵抗性などの観点からバイパスに適した動脈を探すことが世界中の心臓外科医の大きな課題だった1986年、36歳の私は胃大網動脈を使った冠動脈バイパス手術に大阪医科大学で成功した。世界の心臓外科学会はこの手術法に深い関心を示し、1990年代に入ってからはいくつもの海外講演や公開手術を行って精力的にこの手術の有用性を説いて世界各国をまわった。そんな最中の1994年、ローマのカトリック大学から心臓外科教授としての招聘状が届いた。私が44歳の時だった。

「プロフェッソーレ、モンテカルロからお手紙が届いています」
 1995年のサマーバカンスが明けた9月の朝、秘書が机の上に一通の封書を置いた。差出人はモナコ心臓センターの院長ヴァンサン ドール先生で、私にモンテカルロの彼の病院で胃大網動脈を使った冠動脈バイパス手術を供覧してくれとの依頼だった。当時、60歳にして現代最高の心臓外科医の一人と称され、彼の考案したドール手術は世界中の心臓外科医の間で注目の的だった。30代半ばの若さでニース大学の心臓外科教授に就任した彼は、数多くの業績を挙げつつも次第に大学のシステムと窮屈さに満足できなくなり、自分の理想とする最先端の心臓病治療専門病院を夢見て1987年にモナコ心臓センターを設立した。

 超高級ホテルが立ち並ぶモンテカルロの海岸通りは恒例のモナコグランプリでF1レーシングカーが轟音を立てて疾走する名所だ。そのコースに面するエルミタージュ・ホテルの中庭に小規模だが洗練されたモナコ心臓センターが建っている。高度の心臓手術を求めて世界中から患者が訪れるこの病院に招かれて、自分の考案した手術をドール先生の目の前で供覧することは私にとっては望外の喜びだった。

 カトリック大学病院での立てこんだ手術予定を何とか調整して、私はモナコへ出かけた。指定されたホテルにチェックインを済ませてすぐにモナコ心臓センターに向かい、受付で面会を申し入れた。しばらくするとドール先生が颯爽と現れ、笑みをたたえながらも射抜くような鋭い眼差しで私を迎えた。

「ボンジュール、ドクター・スマ」
「ボンジュール。いつも学会であなたの講演を拝聴していて一度お会いしたいと思っていましたが、こんなご招待をいただいて心から嬉しく思っています。この機会にあなたからドール手術の真髄を教えていただけるのを楽しみにしています」
「ありがとう。私の手術に興味を持っていただいてとても嬉しい。そして私も同じくらいあなたの手術をこの目で見たいと思っています。さぁ、病院を案内しましょう」

 病院の敷地面積はさほど広くないが、10階建の各フロアーの随所にセンスのいい絵画が飾られて閉塞感を与えない。病室は個室か2人部屋で、すべての部屋から地中海が見渡せるオーシャンビューだ。私たちは真っ先に手術室に向かい、ロッカールームで手術着に着替えてラウンジに入った。明日、私が手術を行う予定の患者の心臓の造影検査フィルムが映写機にセットされている。フィルムを見終わった私はその症例が胃大網動脈を使うバイパス手術に適していることを確認した。
「この患者さんなら大丈夫です。いい手術をお見せできると思います」
「それはよかった。じゃあ、私からドール手術のことを少しお話ししよう」
 ドール先生は数々の論文を書類棚から取り出してドール手術の基本を私に詳しく説明した。心筋梗塞に陥った心臓の筋肉は次第に壁が薄くなり、時に心室瘤となる。この膨らんだ部分を持つ心臓は重い荷物を抱えて走るようなもので、血液を送り出す仕事の妨げになる。このコブを切り取って重荷を取り去り、心臓を動きやすくするのがドール手術だ。広範囲に壊死した心筋を切除すると心臓の形が歪になりがちなのだが、手術後の心臓の形がより正常に近くなるように工夫を凝らし、その結果より優れた心機能の改善をもたらす術式として世界に認められた。

 翌朝8時から私の手術が始まった。内胸動脈と胃大網動脈を使ったバイパス手術は直径1-2mmの冠動脈を髪の毛より細い糸で縫合しなければならない。一つ間違えれば吻合部が狭くなり、場合によっては手術中に心筋梗塞に陥る。ドールの厳しい観察の眼に晒されながら手術は順調に完了した。手術後の心臓が勢いよく鼓動を繰り返している。その様子を確認した私は手術室を離れて用意されたサンドウイッチで軽く昼食を済ませて、午後1時から始まるドール手術に立ち会った。

 ドール先生が執刀する患者の心臓は広範な心筋梗塞のために収縮力は3分の1に低下しており、大きく膨らんだ心室瘤が一目瞭然だった。詰まっている冠動脈にすばやくバイパスをつないだあと、彼は心室瘤の真ん中に一気にメスを入れた。パックリと口を開いた心臓を覗き込むと心室の内側が真っ白に変色して筋肉が死んでいる。その死んだ筋肉とまだ元気な筋肉との境界にダクロン製のパッチをあてることによって間仕切りをして健常な筋肉だけに包まれた新しい心室を作り上げる。この難手術をドールは鮮やかな手さばきで瞬時のブレもなく完了した。

「お見事でした、ドール先生。やっぱり実際に本物を見ないといけませんね」
「君の手術もとても良かった。論文で見たり、人から伝え聞いていたよりもずっとわかりやすくて見事だった。これからは私も胃大網動脈を積極的に使わせていただくよ」
 私はほっと胸をなでおろしながら、この病院に来てからずっと気になっていたことを尋ねた。
「この病院は本当に気持ちがいいですね。たくさんの患者さんが集まってくることはよくわかりますが、いったいいくつベッドがあってどれだけの医者が働いているのですか?」
「ここはね、ベッドは40床だけで医者は私を入れて10人たらずでやっている。外科医だけではなく心臓専門の内科医も含めてだよ。それでも年間800例の心臓手術をこなしている。君も知っていると思うが手術成績はとてもいいんだ」
「たったそれだけの人数とベッド数でそんなに数多くの手術ができるんですか。いったいその秘訣は何ですか?」
「クオリティー。それに尽きるね。無駄なことはしない、無駄な人は雇わない。少数精鋭のプロ集団を作ること、それ以外に成功の秘訣はない。よく考えてみれば、心臓外科ってそうあるのが基本じゃないかね?」

 確かにその通りなのだが、日本ではそうは行かない。かつて私が勤務していた大学病院では手術室の看護師が心臓手術器具の扱い方をやっと覚えてくれたと思ったら整形外科へ回されますのでさようなら。次に来た看護師は眼科から回ってきたばかりで心臓外科のことはさっぱりわかりません。これではいつまでたってもプロのチームを作ることはできない。私は心臓手術とはF1レースのようなものだと思っている。外科医はドライバーで当然ハイレベルの技術が要求されるが、それだけではレースに勝てない。高性能のマシンと、ピットインしたときにすばやく調整する整備士たちとの高いレベルでのチームワークが不可欠なのだ。素人の寄せ集めチームで難度の高い心臓手術をコンスタントに成功し続けることは不可能だ。ドール先生の話を聞きながら私はいつか日本でこのようなコンパクトで高性能の心臓病治療専門病院を造ってみたいと思った。

 それから5年後の2000年、私が心に描いたハートセンターを葉山に設立することが出来た時、ドール先生は招請に快く応じて講演に訪れて下さった。「いかがでしょうか?」と尋ねる私に彼は微笑みながらつぶやいた。
「富士山が目の前に見えるだけ、こちらの方が素敵かもね」

 私がモンテカルロで供覧手術を行ってから3年後、ドール先生自身によって胃大網動脈の新しい使用法の論文が高名な医学ジャーナルに発表され、その使用法が広まっている。一方、私は帰国後まもなくドール手術を開始して好成績を収め、さらに私自身のアイデアを盛り込んだ「SAVE(セイブ)手術」を考案して治療成績をさらに向上させることが出来た。

 外科医同士の交流が医学の発展のためにいかに大切かを痛感したエピソードである。