講師 須磨 久善
medock総合健診クリニック
略歴
1974年3月 大阪医科大学卒業
1974年4月 虎の門病院 外科レジデント
1978年4月 順天堂大学 胸部外科
1982年7月 大阪医科大学 胸部外科
1984年1月 米国ユタ大学心臓外科 留学(~1984.6)
1989年2月 三井記念病院 循環器外科科長
1992年5月 三井記念病院 心臓血管外科部長
1994年8月~ ローマカトリック大学心臓外科客員教授
1996年10月 湘南鎌倉総合病院 副院長
1998年1月 湘南鎌倉総合病院 院長
2000年5月 葉山ハートセンター 院長
2005年4月 (財)心臓血管研究所 スーパーバイザー
2012年4月 須磨ハートクリニック 院長
2017年2月 スクエアクリニック 院長
所属学会等
・米国胸部外科学会 (American Association for Thoracic Surgery:AATS)
・米国胸部外科学会 (Society of Thoracic Surgeons:STS)
・欧州胸部外科学会 (European Association for Cardiothoracic Surgery:EACTS)
・国際心臓血管外科学会(International Society for Cardiovascular Surgery:ISCS)
・日本冠動脈外科学会(理事)
・日本冠疾患学会(名誉会員)
・日本心臓血管外科学会(特別会員)
・日本心臓病学会
・日本胸部外科学会
兼任
・順天堂大学心臓外科客員教授
・香川大学医学部医学科臨床教授
プロフィール
海外・国内での学会発表多数。心臓手術症例を5,000以上経験し、1986年に世界に先駆けて胃大網動脈グラフトを使用した冠動脈バイパスを開発し、各国で臨床応用が広まる。1996年、日本初のバチスタ手術を施行。以後拡張型心筋症に対する左心室形成術を多数行う。海外での公開手術多数。「プロジェクトX」、「課外授業-ようこそ先輩」(NHK)などで紹介。テレビドラマ「医龍」、映画「チームバチスタの栄光」等の医療監修を行う。2010年、海堂 尊原作をもとに須磨の功績を描いた特別ドラマ「外科医 須磨久善」が放映。同年、日本心臓病学会栄誉賞受賞。 2012年、自著「タッチ・ユア・ハート」を講談社から、2014年「医者になりたい君へ」を河出書房新社から出版。
武内 敦郎 先生の思い出
1968年の春、今から45年前のこと、私は大阪医科大学に入学した。私が医者を志したきっかけは周囲からの影響ではなかった。親戚縁者、親兄弟に医者はおらず、医学の世界を理解する手本はいなかった。神戸で育った私は地元の幼稚園から大学まである一貫校に中学から入学して受験勉強とは無縁の世界に身を置いた。その大学に医学部はなく、中学入学時に親は私を医者にさせようなどとは考えていなかったはずだ。医学部を受験するつもりならもっと受験教育に長けた進学校がいくらでも周りにあったのだから。
人生とは面白いもので置かれた環境がその人の将来を決定づけることがよくある。私の場合、大学受験とは程遠い環境に身を置いたお陰でどの大学に行くかという事は友人同士の会話で話題にならず、遊びと運動のこと以外は将来どんな仕事をするのかに話が飛んでいった。
私が中学生のころ日本は東京オリンピックで湧きかえり、求められる男の理想像といえば「モーレツ」だった。人を蹴飛ばし誰よりも先に多くのものを獲得する、そんな競争に勝てる男が「できる男」だった。引っ込み思案で競争が大嫌い、放課後はガキ大将どもにほうきを持って追いかけられるいじめられっ子の私がモーレツなんかになれるわけがなかった。そんな自分がどのような仕事でうまく社会と関わることができるのか、最後にたどりついた答えが医者だった。大きな組織に属さず、他人に振り回されることなく、人の喜ぶことをして「ありがとう」といわれて幸せになる。それが私の心にイメージされた医者の姿だった。
医学生としての6年間に様々な専門領域を目の当たりにして何が自分にとって最も魅力的なのかを何度も自問したあげく、心臓外科を学ぼうと決めた。理由の一つは私が医学部を受験する直前に史上初の心臓移植が南アフリカで成功し、そのニュースを見た十七歳の私の心に心臓病を手術で治すというイメージが強く焼きついたこと、そして何よりも私をその気にさせたのが母校の胸部外科教授だった武内敦郎先生との出会いだった。当時高い視聴率を得ていた米国テレビドラマ「ベン・ケーシー」の凄腕外科医によく似た四十歳を過ぎたばかりの精悍な心臓外科医の臨床講義は活気に溢れていた。自宅に招かれて奥様の手造りの夕食をご馳走になりながら聞く彼の米国クリーブランド留学中の体験談や、日本の遥かに先を行く米国心臓外科の活況についての熱い語りは私の心を魅了した。動きの弱った心臓を手術で劇的に蘇らせる、そんな外科医になれるものなら何としてもなりたい。「心臓を手術する」というメッセージが頭の中に強く焼きついた医学生は、解剖の実習では心臓を誰よりも長い時間をかけて眺めていた。そして大学の図書室で当時米国で開発されたばかりの冠動脈バイパス手術の論文を目の当たりにして「この手術が出来るようになりたい」と強く思った。
通常ならば卒後はそのまま母校の胸部外科教室に入局すればよかった。しかし当時の卒後教育は大学に残ればその医局以外の科での研修はほとんど表面的なものでしかなく、私にはそれで医学の基礎がしっかりと学べるとは思えなかった。まずは東京に行ってみよう、そして一般外科を中心とした臨床の基礎をしっかりと教育してくれる病院で研修を受けよう。翌週には虎の門病院の外科レジデントの採用試験の願書を手にしていた。
武内教授は私が心臓外科に真剣に興味を抱いていることはよくご存じで、当然胸部外科に入局するものと考えておられたと思う。ところが最終学年も終わりに近づいたころ、私は「東京に行きます」と告げた。虎の門病院外科レジデントとして4年間のカリキュラムを組んだ研修医の採用通知が届いたのだ。
教授の目に一瞬驚きがよぎったように見えた、がすぐに私の手を強く握りしめて言った。
「よかろう、頑張ってきなさい。4年間しっかりと基礎を勉強して、ここに戻ってきなさい」
当時、虎の門病院で心臓の手術は行っていなかったのでローテーションで学ぶ機会はなかった。しかし将来必ず心臓外科医になろうと決めていた私は、志を遂げる前にすべての医療分野の基礎を学び、今しかできない一期一会の気持ちで各科をローテーションしようと心に誓った。消化器外科、呼吸器外科、脳外科、整形外科、泌尿器外科、血管外科、乳腺や甲状腺などの内分泌外科などの外科系を回り、さらに呼吸器、循環器内科を選択して当時始まったばかりの冠動脈カテーテル法を学んだ。
4年間の研修課程が終わり、虎の門病院を卒業してついに心臓外科を学ぶ時が来たと思った私に循環器科の部長が言った。
「須磨君、心臓外科、特に冠動脈バイパス手術を学びたいのなら順天堂の鈴木章夫教授のところに行くべきだ」
数週間悩み続けた私は意を決して順天堂大学に赴き鈴木教授の面接を受けた。
「助手のポストはない。すなわち無給ということだが、それでいいかね?」
その問いに「結構です」と答えてしまった後、武内教授と私の妻にどのように説明しようかと困惑したがすでに答えは出した後だった。
「えー、お給料なくなるの? でも、もう決めたのね」と呆れた顔で私を見る妻を横目に、私は恐る恐る武内教授に電話を入れた。
「もう聞いたよ。鈴木先生からさっき電話があってね。須磨君は私が引き取る、といきなり言われた」
考えてみれば、鈴木章夫先生が米国クリーブランドのセント・ヴィンセント病院の心臓外科でチーフ・レジデントを務めておられた頃に、武内先生はそこに留学されていたのでお二人は旧知の仲、というわけだ。戻って来るものと思っていた矢先に、突然そう聞かされた武内先生の心中は計り知れない。
「申し訳ありません」
それしか言えなかった。
順天堂での心臓外科修行については別稿で述べることにして、その4年目が過ぎたある日、鈴木教授は母校の東京医科歯科大学の教授として移っていかれることになった。そうなると私の選択肢は三つしかない。このまま順天堂に残って次の教授を待つか、鈴木教授に付いて移るか、さもなければ別の病院を探すか。私は悩んだあげく武内教授に相談した。答えは明快だった。
「いい加減に帰ってきなさい」。