医療ニュース 2024.01.18

DMAT、救命医療から災害関連死の対応に幅広げる…能登では感染症が課題で「真価問われるのはこれから」

「阪神」の教訓 能登の被災地で〈上〉

 国内で初めて震度7が記録された阪神大震災から17日で29年となった。元日に最大震度7の激しい揺れが襲った能登半島地震の被災地には、あの日の教訓を胸に奔走する人たちがいる。

 「いつ破綻してもおかしくない」。発生から72時間が過ぎた4日夜、多くの死傷者が出た石川県 珠洲すず 市の市総合病院に到着した 淡海おうみ 医療センター(滋賀県草津市)のDMAT(災害派遣医療チーム)の藤井 応理まさのり 医師(58)は、 逼迫ひっぱく した状況に緊張した。

 珠洲市内で機能している医療機関はここだけで、被災者が殺到。かろうじて出勤できた医師や看護師らが不休で対応していた。

 水や食料も不足し、約100人の入院患者の4割に転院してもらうことに。DMATが受け入れ先を探す電話をかけ続け、ヘリによる患者搬送に走り回った。食事は持ち込んだカップ麺。3時間の仮眠を取り、同じチームの看護師ら4人と現地の医療スタッフを支えた。

 1チームのDMATに課せられた任務は3日間。長野や愛知などからも続々とチームが派遣され、病院関係者は「DMATのおかげで多くの命が救われた」と感謝する。

 阪神大震災では当時、現場で医療活動を行う専門チームはなく、治療の優先度を選別する「トリアージ」や重傷者の搬送が機能しなかった。救急医療体制が整っていれば、救えた命は500人はいたとされる。

 62人が死亡した淡路島の中央部に位置する兵庫県立淡路病院(洲本市)にはあの日、次々とけが人が運び込まれた。当時、当直明けで治療にあたり、現在は六甲アイランド甲南病院(神戸市東灘区)に勤める水谷和郎医師(59)は「1人の患者を複数の医師で診るなど混乱した。もっとやれることがあったはず」と悔やむ。

 阪神大震災を教訓に、厚生労働省は、DMATの研修・登録制度を2005年に創設。災害現場での救命医療や患者の広域搬送を担うチームが全国の災害拠点病院などに設置され、11年の東日本大震災や18年の西日本豪雨などで活躍した。

 DMAT事務局によると、今回、石川県七尾市の病院などに活動拠点が置かれ、県からの要請に基づき全国各地のチームが集結。珠洲市では6日夜、倒壊家屋から124時間ぶりに90歳代女性が救出され、DMATの治療で一命を取り留めた。水谷医師は「災害はいつどこで起こるかわからない。災害医療への備えはますます重要になる」と話す。

 創設から20年近く経過し活動内容も進化している。当初は災害直後の救命活動に注力していたが、災害関連死が東日本大震災などで相次ぎ、活動の幅を拡大。高齢者施設や避難所などに出向いて被災者の健康状態を把握、保健所などにつなぐ取り組みを強化した。

 被災地の県庁などに運営本部を置き、現地に入るチームからの情報を集約して、どこに支援が必要かを共有する体制も作り上げてきた。DMAT創設に尽力し、今回も輪島市立輪島病院に出動した医師の本間正人・鳥取大教授(61)は「病院や避難所などの情報が集まり、きめ細かな支援が実現できつつある」と話す。

 一方、能登では長引く避難生活で、避難所などで広がる感染症への対策が喫緊の課題となっている。本間教授は自戒する。「これまでの教訓がどこまで生かせるか。我々の真価が問われるのはこれからだ」

 阪神大震災を教訓に、医療や被災者支援など様々な分野で新たな仕組みが導入された。能登半島の被災地でどう生かされているのか、3回に分けて検証する。

 ◆ DMAT =Disaster Medical Assistance Teamの略。1チームあたり医師、看護師など5人前後で構成される。現地での活動費は災害救助法や医療法に基づき、国が負担する。チーム数は年々増加し、昨年3月末時点で1773チームが登録されている。

「夢への一歩見守って」 神戸の学生 亡き祖父へ

 「夢への一歩を踏み出します。見守ってください」。阪神大震災で祖父・輝行さん(当時58歳)を亡くした大学4年の板倉 真尋(まひろ) さん(21)(神戸市東灘区)は17日早朝、東遊園地(同市中央区)の追悼会場で、祖父に心の中で語りかけた。

 今春、夢だったテレビ制作の仕事に就く。その報告をしようと、父の哲也さん(53)とともにこの日、祖父のゆかりの地を巡った。

 祖父が亡くなった長田区のアパート跡で、哲也さんから「焼け跡でおじいちゃんの骨を見つけたんや」と聞かされ、胸が締め付けられた。哲也さんが骨を持ち込み、検視を受けた当時の遺体安置所の前も通った。

 靴職人だった祖父は借金で廃業したが、小学校の用務員をしながら3人の子どもを育て上げた。「やるからには最後までやれ」が口癖だったという。

 哲也さんは幼い頃、輝行さんによく洋食店に連れられ、料理人に憧れた。民間企業に就職したが、震災の1か月前、輝行さんに夢を打ち明け、「やりたいなら、やってみろ」と背中を押された。哲也さんは会社を辞め、14年間の修業後、洋食店「Itasan亭」を開業。自分と輝行さんが同じ「板さん」と呼ばれていたことを知り、名付けた。店は今年、15年を迎える。

 東遊園地では、大勢の人が黙とうする様子を目にした。真尋さんは「人生の半ばで亡くなった人が大勢いたこと、父のように思いをつなぐ遺族がたくさんいることを実感した。夢に向かって頑張りたい」と語った。

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