話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!
どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
世界のスーパードクターほか、人気メディアに出演
今回のゲストは、福田総合病院の「米田 正始」先生です!
第1回「心臓血管外科というジャンルがあることも知りませんでした」をお話しいただきます。
目次
- プロフィール
- 医師を目指したきっかけをお聞かせください。
- 大学生活はどのようにお過ごしでしたか。
- サークル活動などもされましたか。
- 外科の中でも心臓を専攻しようと思われたのはどうしてですか。
- どのような関心を持たれましたか。
- 心臓血管外科の手術を目の当たりにされて、決心されたのですね。
- その経験から、研修先に天理よろづ相談所病院を選ばれたのですか。
- 天理よろづ相談所病院での研修の日々はいかがでしたか。
- 天理よろづ相談所病院には先生のように心臓血管外科を目指して集まってきた研修医が多かったのですか。
- 先生の世代でスーパーローテートの研修をされたのは珍しいですよね。
- シニアレジデントとして、そのまま天理よろづ相談所病院に残られたのですね。
- シニアレジデントになられて、初めて心臓血管外科の手術を経験されたのですか。
- シニアレジデントを終えて、天理よろづ相談所病院に就職されたのですね。
- 留学先として、トロント大学を選ばれたのはどうしてですか。
- それでトロント大学トロント西病院に行かれたのですね。
- 技術的な指導も受けられたのですか。
- そしてトロント大学トロント総合病院に移られたのですね。
- 当時のトロント大学では年間2000例の手術があったそうですね。
- 研究もされていましたか。
プロフィール
- 名前
- 米田(こめだ) 正始(まさし)
- 病院名
- 福田総合病院
- 所属
- 心臓センター
- 資格
-
- 日本胸部外科学会認定医・指導医
- 日本外科学会認定医・専門医
- 三学会構成心臓血管外科専門医認定医機構心臓血管外科専門医
修練指導医 - 米国胸部外科学会(AATS)会員
- 米国臨床胸部外科医会(STS)会員
- ヨーロッパ心臓胸部外科学会(EACTS)会員
- アジア心臓胸部外科学会(ASCVS)会員・理事
- アジア弁膜症アカデミー(Mulu弁膜症国際シンポジウム)理事
第9回国際シンポジウム会長 - 日本冠疾患学会理事・名誉会員
- 日本冠動脈外科学会理事・幹事・名誉会員
- 日本低侵襲心臓手術学会(旧Japan MICS Summit)世話人・理事
- 日本心臓血管外科学会理事・特別会員
- 神戸大学大学院非常勤講師
- 岡山大学大学院非常勤講師
- 中国・大連大学医学院附属中心医院客員教授
- 中国人民解放軍第二軍医大学客座教授
- 中国・天津医科大学・泰達国際心臓血管病院客員教授
- 昭和大学客員教授、All About 心臓病 ガイド など
- 経歴
-
- 1955年奈良県橿原市で生まれる。
- 1981年京都大学を卒業後、天理よろづ相談所病院でジュニアレジデントとなる。
- 1983年天理よろづ相談所病院でシニアレジデント、心臓血管外科上級研修医となる。
- 1987年天理よろづ相談所病院心臓血管外科医員となる。
- 1987年トロント大学トロント西病院心臓血管外科に上級医員として留学する。
- 1990年トロント大学トロント総合病院心臓外科に上級医員として留学する。
- 1993年スタンフォード大学医学部メディカルセンターに上級研究員として留学する。
- 1996年メルボルン大学医学部心臓血管外科に主任外科医・助教授として着任する。
- 1998年京都大学医学部心臓血管外科教授に就任する。
- 2007年豊橋ハートセンター、大和成和病院心臓血管外科スーパーバイザーに就任する。
- 2008年名古屋ハートセンターに副院長、心臓血管外科統括部長として着任する。
- 2013年高の原中央病院かんさいハートセンターに特任院長、ハートセンター長、心臓血管外科部長として着任する。
- 2015年仁泉会病院心臓血管外科部長(2024年まで)、野崎徳洲会病院心臓血管外科スーパーバイザー(2016年まで)を兼任する。
- 2016年医誠会病院心臓センターにスーパーバイザーとして着任する。
- 2020年福田総合病院に心臓センター長として着任する。
医師を目指すー
ー医師を目指したきっかけをお聞かせください。
私は外科医になりたいと最初から思っていたんです。極端に言えば、医師になれなくても外科医になれればいいというぐらいの気持ちを小さい頃から持っていました。
私はものづくりが大好きだったんです。親に無理を言ってプラモデルを買ってもらい、自分でも設計し毎日のように組み立てていました。それがいつしかモノから人間の身体に興味の対象が変わっていきました。ものづくりで誰かの役に立てればという気持ちが強くありましたが、その気持ちが手を動かして何かを作る、何かを治す仕事である外科医を目指すきっかけになりました。
ー大学生活はどのようにお過ごしでしたか。
大学に入ると、私の周りには優秀な人が大勢いました。友人たちは志が高く、勉強ができ、医学だけではなく、社会的なことへの知識も持っていました。その中でも尊敬していた友だちに勧められ、色々なボランティア活動を始めました。障害のある方のお宅に伺って、ヘルパーさんのようなことをしたり、色々な活動をしながら視野を広げていきました。
ーサークル活動などもされましたか。
当初バレーボール部、その後京大ESSに入りました。ある先輩から「これからは海外で活躍しないといけない時代になるから、学生時代に英語を本気で勉強しておきなさい」と言われたことがきっかけです。
毎日、昼休みにdaily practiceとして、Spoken American Englishを練習し、夕方にもまた集まって、Debate、Drama、Discussion、Speechなどの活動をしていました。英語で考察したり、ディスカッションした経験はその後の海外留学での手術の技術や研究業績の向上に大きく役立ちました。それ以上に、ESSに入ったことで、他学部に友人ができたことが有意義だったと思います。
ー外科の中でも心臓を専攻しようと思われたのはどうしてですか。
外科医になりたいとは思っていたのですが、大学に入った頃は心臓血管外科というジャンルがあることも知りませんでした(笑)。
外科というのはお腹の外科だと思い込んでいたのです。ところが、大学4年生の頃から医学の勉強を本格的に始めるようになると、「心臓血管外科というのがあるんだな」と少しずつ関心を持つようになりました。
ーどのような関心を持たれましたか。
心臓血管外科の世界が巨大科学であることです。
そのきっかけは5年生の夏の実習で天理よろづ相談所病院に行き、心臓血管外科の手術を見たことでした。これはすごい、これを一生やりたいと思いました。あの頃は待遇とか自由時間などは何も考えず、ただ没頭できる仕事に惹かれていました。
ー心臓血管外科の手術を目の当たりにされて、決心されたのですね。
手術もそうでしたが、手術室の雰囲気にも惹かれました。
ーその経験から、研修先に天理よろづ相談所病院を選ばれたのですか。
そうです。実習が良かったということもありますし、私の実家からある程度近いということもありました。天理よろづ相談所病院は奈良県内では当時東洋一と言う声もあり、私も将来はここで仕事をしたいなという漠然とした気持ちがあったんです。それから本音を申し上げると、今は違いますが、当時の大学病院での研修はあまり評判が良くなかったこともあり、大学病院を除外し、市中病院を探していたという理由もあります(笑)。
ー天理よろづ相談所病院での研修の日々はいかがでしたか。
自分に腹立たしい思いをすることが山ほどありましたが、色々なことを勉強できて、とても充実していました。当時の仲間は野武士のような良さを持っていて、実力派ばかりでした。天理よろづ相談所病院での「問題解決型・一貫研修」はとてもユニークで、勉強になりました。

ー天理よろづ相談所病院には先生のように心臓血管外科を目指して集まってきた研修医が多かったのですか。
研修医時代は一般的な内科や外科を学んでいましたし、皆が将来はどこに行くのか分からないという感じでしたが、同期の中で心臓をやりたいと言っていたのは私だけでした。
今でこそスーパーローテートの初期研修は当たり前ですが、当時はまだそれがない時代でした。しかし、天理よろづ相談所病院はその先駆けの一つで、沖縄県立中部病院や聖路加国際病院の次ぐらいの位置づけであったような気がします。何でも人として幅広く診るというところが非常に良かったです。
ー先生の世代でスーパーローテートの研修をされたのは珍しいですよね。
同級生にもほとんどいなかったですね。「何で、そんな病院に行くの」と言われたこともあります(笑)。そういう雰囲気の時代でした。
しかし、天理よろづ相談所病院での研修はどれも意味がありました。麻酔科、内科、消化器外科、産婦人科、救急、眼科など、とても勉強になりました。もっと長くやりたいと思っていましたが、2年で終わるものなので、2年で終わり、シニアレジデントになりました。
ーシニアレジデントとして、そのまま天理よろづ相談所病院に残られたのですね。
せっかく調子が上がってきたので、このままできるだけ腕を磨きたいという気持ちで残りました。
ーシニアレジデントになられて、初めて心臓血管外科の手術を経験されたのですか。
毎日、手術室に入れるのですが、まだヒヨコですから当然執刀はなかなかさせていただけません。でも心臓血管外科には胸を開けるとか、閉じるとか、色々な血管を縫うなどのやれることは多くありますので、退屈することもなく、喜んでやっていました。2年ほど経って少し成長曲線が鈍ったように思い、臨床研究と学会発表をするようになって仕事がもっと面白くなりました。
ーシニアレジデントを終えて、天理よろづ相談所病院に就職されたのですね。
天理よろづ相談所病院でのシニアレジデントは4年間で、そのあとはジュニアスタッフという「名前だけスタッフ」になるのですが(笑)、ジュニアスタッフになって半年目に留学の話が決まったので、実際にスタッフとして働いたのは半年ぐらいです。ただ、その当時の心臓血管外科はパワーのあるチームで、勉強はもちろん、遊び心まで学ぶことができました。その後、そのチームから多くの大学教授を輩出できたのはごく自然のことに思えます。
トロント大学に留学する
ー留学先として、トロント大学を選ばれたのはどうしてですか。
色々な偶然がありました。私がシニアレジデントだったときに、トロント大学の偉い先生が日本の学会に講演に来られたことがあります。私は当時、僧帽弁の研究をしていたのですが、その先生はその研究でのトップの先生だったので、その先生のところに直訴のように話をしに行ったんですね。この時は長年磨いて来た英語が役に立ちました。そのときに「トロントに一度、見学に来ないか」と言われ、そこから話が決まっていったんです。一本釣りのような感じで人生のターニングポイントでした(笑)。そのときに、その先生ではなく、ほかの大学の先生が来ておられたら、トロントには行っていなかったのかもしれません。
ーそれでトロント大学トロント西病院に行かれたのですね。
行ってみると、カルチャーショックと言いますか、本当に驚きました。当時、日本の心臓血管外科には立派な先生方がおられたにしては色々な理由からレベルが低かったのです。ところが、カナダに行くと、カナダはアメリカと文化的に似ている国ですし、学べることが多かったです。手術に関しては恐ろしいほどレベルが高く、しかも来る日も来る日も毎日2例ずつ手術に入れますし、当直の日は夜に手術に入ることもありました。最初は簡単なことばかりしていましたが、3カ月ほど経つと「ちょっとやってみないか」と言われ、冠動脈を縫わせて頂けるようになりました。「こんなことがありうるんか」という感動の毎日でした。当直でない週末は2日間遊び放題、教授命令で毎月トロントシンフォニーのコンサートへ、年2週間はオフが義務ということで夏はヨーロッパ、冬はカリブ海でリラックスなど夢のような生活でした。
ー技術的な指導も受けられたのですか。
そうです。そこで下手なことをしたら、やらせてくれた先生にも、もちろん患者さんにも迷惑がかかりますから、絶対に失敗は許されません。でも、私の目の前で、その先生が目を皿にしてじっと見てくれていて、何かあればその場で直してくれました。それが安全な教育なのだと思いました。教育とは教える側も教えられる側もクビをかけた真剣勝負であると学びました。
ーそしてトロント大学トロント総合病院に移られたのですね。
トロント大学の関連病院を大きくしようということで、2つの大きな病院である西病院と総合病院が合併し、巨大な病院になったのです。そこに私も自動的に移りました。
ー当時のトロント大学では年間2000例の手術があったそうですね。
年間2200例を超えていました。色々な手術があり、手術後も私たちが診ていました。毎日、何十人かの患者さんがICUに入られますが、当直するとそれを1人か2人の医師で診ますので、ものすごく忙しかったです。寝る暇もないのに、でも結構楽しかったです。充実感で一杯の毎日でしたので、全く苦痛ではありませんでした。徹夜当直の翌朝、2例執刀してから帰宅するかと聞かれて二つ返事で引き受けました。このまま過労死しても悔いはないと思っていました。トロントでは恩師のTirone Davidとともに心室中隔穿孔に有効な術式である「David-Komeda法」を考案し、発表しました。
ー研究もされていましたか。
手術をするだけではそこから先の展開がないので、研究にも打ち込みました。天理よろづ相談所病院時代から先輩方に教わりながら、様々な小さい研究をしていたのですが、トロントのほうが研究にはいい環境でしたので、臨床と並行して研究も頑張っていました。それが認められてスタンフォード大学やメルボルン大学での仕事につながりました。
医局から離れて一匹狼でいる場合、研究ができないと大変不利になると思いました。臨床のために研究をする、というスタンスは研修と留学時代に身に付きました。
