話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!
どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。
【出演番組一部抜粋】
・news every (TV)
・読売新聞オンライン 大阪・関西万博特集(記事)
・FNN プライムオンライン(記事)
今回は【大阪赤十字病院 看護部】の川瀨 佐知子 看護係長のインタビューです!
テーマは 第2回「自分に何ができるのかという気持ちになりました。」をお話しいただきます。
目次
プロフィール
- 名前
- 川瀨(かわせ) 佐知子(さちこ)
- 病院名
- 大阪赤十字病院
- 所属
- 看護部 看護係長
- 経歴
-
- 1978年に大阪府大阪市で生まれる。
- 2000年に大阪赤十字看護専門学校を卒業後、大阪赤十字病院に勤務する。
- 2006年に大阪赤十字病院を退職し、バックパッカーとなる。
- 2007年に大阪赤十字病院に復職する。
- 2008年に日本赤十字社国際医療救援要員として登録する。
- 2009年に日本赤十字社の国際救護要員として、ジンバブエでのコレラ流行に対する医療支援、バングラデシュのサイクロンシドゥル復興支援を行う。
- 2010年、2011年にハイチの大地震後の緊急医療支援、復興支援を行う。
- 2014年にロンドン大学衛生熱帯医学大学院を修了する。
- 2015年にネパールの大地震後の初期アセスメント、緊急救援活動を行う。
- 2017年、2018年、2019年にバングラデシュでの避難民支援事業に携わる。
- 2022年7月からパレスチナ・ガザ地区へのリモート支援を行う。
- 2023年7月3日から11月5日までガザ地区のアルクッズ病院で医療支援事業を行う。帰国後は大阪赤十字病院に勤務する。
- 2025年4月から9月までジュネーブの国際赤十字・赤新月社連盟本部で勤務する。
- 2025年10月から大阪赤十字病院に勤務する。
─ 2023年11月5日にガザ地区から日本に帰ってこられたのですね。
そうです。11月1日にガザ地区から出たのですが、一刻も早く日本に帰りたい、家族に会いたいという思いが強かったです。当時の国際赤十字のメンバーは5人が残り、6人が出ました。残った人たちは本当にすごいと思います。一人ずつに「残りますか、どうしますか」という質問があったのですが、私は日本赤十字社の所属だったこともあり、残るという選択肢はありませんでした。それで「あなたはもうすぐ出ます」と言われていたのですが、11月1日の朝6時30分ぐらいに突然、「今からすぐに準備して。7時30分にこの建物を出て、国境に向かう」と言われました。急にそういうことは起こるかもしれないと予想していましたし、心の準備もしていましたが、いざ出るとなると複雑でした。
─ どのようなことを考えられましたか。
ガザの中に現地のスタッフを置いていくということ、ガザの方々を支援できなくなるということが残念だと、私を含めて、一緒に出ていく皆がそう思っていました。一方で、できるだけ早く日本に帰りたいという思いもありました。そのときに国際赤十字のスタッフや心のケアの専門家に「今、帰ってはいけない」と言われたんです。私はその言葉に衝撃を受け、「帰りたい。今の自分の気持ちを安定させるには早く家族に会うことが一番だ。飛行機のチケットもどうにかして変更して」と訴えたのですが、「駄目だ。少なくとも3日はいてください」と何度も言われました。
─ それはどういう理由からだったのでしょうか。
急に帰ってしまうと、私自身はもちろん、家族も私に対して、どう接していいのか分からず、そのあとの関係性にも響いてくるからという理由でした。それで、3日間ほどは日本に帰らず、気持ちを落ち着かせるための心のケアを受けることになりました。
─ どのような心のケアを受けられたのですか。
個人のセッションのほか、一緒に出てきたメンバーがお互いの気持ちを共有し合うセッションもありました。そのセッションでは全員が辛い気持ちを吐露して、皆が号泣しました。私もそこで「皆が私と同じように辛かったんやな」と気づきました。中にいるときは気持ちを強く持っているのですが、そういうセッションに出て、皆が号泣したのを見て、ほっとしましたし、心のケアになりました。日本に帰るための気持ちの準備もしていましたし、あの3日間がなければ気持ちの整理がつかず、たしかに日本の生活になかなか戻れなかったかもしれません。今となっては「よく引き止めてくれたな」と思いますし、家族も「そのまま帰ってきたら、どうしようかと思っていた」と言っていました。
─ ご家族とは連絡が取れていたのですか。
取れたり、取れなかったりでした。3日間ぐらい連絡が取れなかったときは、家族は私は生命に何かあったのではないか、死んだのではないかと思っていたそうです。それぐらい連絡がつかなかったこともありました。電話が通じなかったときに一度、「生きてるから。大丈夫だから」と夫に衛星電話で連絡したことがあるのですが、そのときに夫から「もうそこにいてるだけで頑張っているんやから、あれせなあかん、これせなあかんなんか思わんでええから」と言われました。周りに患者さんもいて、支援しなくてはいけないという状況ではありましたが、夫のその一言で安心しました。
─ ご主人はお優しいですね。
そうですね。でも夫にも色々な思いがあったようです。日赤にも家族サポートの担当者がいて、状況を共有しながら毎日、夫に連絡してくれていたので、それも夫にとっては心のケアになりました。ただ、少しの資器材しかない現地で、色々な職種の国際赤十字のメンバーと一緒に目の前の人たちに対して、医療職として何かできることがあるというのは自分の気持ちを安定させるには重要な要素でした。何もできなくてストレスが溜まる人、何をしたらいいんだろうと思い詰めていた人もいましたし、もともと紛争地での経験がある人が多かったこともあって、お互いが支え合って生活できていたのですが、私個人としては医療職であり、看護職であったからこそ、何とか乗り越えられたのではないかと感じています。
─ 日本に戻られて、大阪赤十字病院での勤務が再開したのですね。
ガザに行く前はICU勤務だったので、ICUに戻りました。ICUは重症の患者さんが点滴などで色々な治療を受けているところですが、ガザとの違いに辛くなりました。ここにはこれだけの医療資機材や施設、医療を提供する人材が十分なのに、ガザにはあれだけ多くの重症患者さんがいても医療を提供できる環境がないということにストレスを感じたんですね。それで、ICUで仕事を続けることが難しいとお伝えしたところ、小児科に異動することになりました。小児科の外来でかわいい子どもの患者さんにとても癒やされましたし、それで気持ちが落ち着き、心のケアにもなりました。
ジュネーブで働く
─ その後はどちらに勤務されたのですか。
2025年3月に救急に異動になり、4月から9月まではジュネーブの国際赤十字・赤新月社連盟本部の事務局で働きました。
─ ジュネーブでどのようなお仕事をされたのですか。
Emergency Healthチームに看護師として加わり、public healthとmedical serviceの両方をサポートしながら活動しています。
─ ジュネーブでのお仕事のどのようなことが大変でしたか。
ずっとフィールドで活動してきて、事務局で活動することがなかったので、フィールドが恋しくて恋しくてたまりませんでした(笑)。あまり事務局にいると、現場でのインパクトが見えないんですね。今後、派遣に出るにあたり、医療支援の質の向上を目指して、医療支援チームが持つべき基準を作り、その基準をクリアしないといけないということになったのですが、その基準をクリアするための手順を色々な国々に共有するための会議などをしていました。ただ、それがフィールドでどうなったのかを見ることができる立場ではないですし、これまでフィールドベースで活動してきた私としてはもどかしさもあります。でも、ジュネーブで取り組んだことは質の向上に繋がることはもちろん、現地でのインパクトに繋がってくるものですし、後方支援的な立場での働き方も分かってきました。今後はジュネーブでの学びを活かして、フィールドにどうやって繋げるのかという具体的なところを考えないといけないなと思っています。
─ ジュネーブではアルクッズ病院の方々に連絡を取っていましたか。
取っていました。アルクッズ病院で一緒に働いていた同僚が今もそこで働いています。アルクッズ病院は爆撃を受けた2023年11月中旬以降は全く使われていませんでした。酸素や電気の配管などが壊れてしまい、病院自体もかなりの損害を受けていたんですね。でも2025年3月の停戦期間中に配管工事や掃除などの再建をして、こんなにも復活できるんだというぐらい、綺麗な病院になり、患者さんの受け入れを再開しました。今も患者さんの受け入れをしており、SNSに写真や活動内容が多数投稿されているので、それを見たりもしています。見ていられないぐらい過酷な状況であることは写真を見ても分かりますし、写っているスタッフが以前に比べるとかなり痩せていることも気になりますが、連絡をすると、インターネット環境により数日後になったりもしますが、返事が来ます。