話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!
どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
BS朝日「命を救う!スゴ腕ドクター」
今回は【北里大学北里研究所病院 副院長 一般・消化器外科部長】石井 良幸先生のインタビューです!
慶應で外科の礎を築き、がん研究・米国留学を経て北里大学教授へ。
研鑽と挑戦を重ね、臨床・研究・教育で医療の最前線を牽引する外科医の歩みなど、語っていただきました――。
テーマは 第3回「わからないことが悔しくて人生で一番勉強した2年間でした。」をお話しいただきます。
目次
プロフィール

- 名前
- 石井(いしい) 良幸(よしゆき)
- 病院名
- 北里大学北里研究所病院
- 所属
- 副院長、一般・消化器外科部長、北里大学医学部教授(下部消化管外科学)
- 資格
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- 日本外科学会外科認定医・専門医・指導医
- 日本消化器外科学会認定医・専門医・指導医
- 日本消化器外科学会消化器がん外科治療認定医
- 日本大腸肛門病学会専門医・指導医
- 日本内視鏡外科学会技術認定医(消化器・一般外科)
- 日本消化器内視鏡学会消化器内視鏡専門医
- 日本がん治療認定機構がん治療認定医・暫定教育医
- 難病指定医
- 身体障害者福祉法指定医
- 痔核ジオン注使用認定医など
- 経歴
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- 1966年東京都台東区で生まれる。
- 1991年慶應義塾大学を卒業後、慶應義塾大学病院で外科研修医となる。
- 1995年慶應義塾大学医学部外科学教室の助手となる。
- 1996年国立がん研究センター研究所に出向する。
- 1998年慶應義塾大学医学部外科学教室の助手となる。
- 2001年6月から9月まで、米国Cornell大学に留学する。
- 2003年慶應義塾大学医学部包括先進医療センター助手を経て、2004年に慶應義塾大学医学部外科学教室の助手となる。
- 2009年慶應義塾大学医学部外科学教室の専任講師に就任する。
- 2014年北里大学北里研究所病院消化器外科部長に就任する。
- 2016年北里大学医学部外科学教授に就任する。
- 2017年慶應義塾大学医学部客員教授に就任する。
- 2018年北里大学北里研究所病院副院長を兼任する。
第3回 一般・消化器外科医になる
─ 脳神経外科から一般・消化器外科に変更されたのはどうしてですか。
最初から一般・消化器外科に勧誘はされていたんです。当時は研修のカリキュラムが充実している科とそうでない科がありましたが、一般・消化器外科はカリキュラムがしっかりしていましたし、将来的にもいわゆる潰しが効くという話を聞いて、魅力的だなと思いました。手術にしても「取りっぱなし」ではなく、再建という要素もあります。私はものづくりが好きだったこともあり、そういった手技ができることにも惹かれ、一般・消化器外科に変更しました。
─ 一般・消化器外科の研修をどういった病院でなさったのですか。
脳神経外科医として1年間、足利赤十字病院に出張しましたが、その後に一般・消化器外科に入り、2年間の出張に出ました。1年目は水戸赤十字病院、2年目は静岡市立清水病院です。当時はまだ清水市だったので、清水市立病院という名称でした。その2年間が終わって、大学病院に戻ってきました。
─ 水戸や清水での研修はいかがでしたか。
辛かったですが、楽しかったです。水戸では直属の上の先生が独身でいらしたので、2日に1日は飲みに連れていかれ、夜中まで大変でしたね(笑)。でも若かったので、少し寝れば回復できていました。勉強も手術もかなりしました。この時期に多くの手術をさせていただけたのは良かったです。
─ その頃はまだ大腸に特化していらっしゃらなかったのですね。
一般的なコースですと、「一般・消化器外科に入ります」という宣言をしてから2年間の出張があり、卒後4年目に大学病院に帰ってくるのですが、私は1年間、脳神経外科医として勤務してから2年間の出張に行きましたので、一般的なコースの人とは少し違いますが、出張した2年間は一般・消化器外科の全ての領域を経験し、大学病院に戻るときにどの臓器にするのかという専門を決めて、その宣言をします。その希望が通れば、その臓器班に入って、専門を追究していくことになっていました。私はそこで大腸外科を志望して、希望通りになりました。
─ なぜ大腸外科を選ばれたのですか。
大腸の内視鏡検査の発展の時期だったこともあり、やはり面白かったんですよね。その検査ができるということは魅力でした。それに、これから大腸がんが増えてくるという予想があり、症例が増えるだろうという見込みもあったので、色々な要素を考えて、大腸外科を選びました。

─ 大腸外科に進まれたあとで、国立がん研究センター研究所にいらしたのですね。
大腸外科の研修を1年、大学病院で行ったあとで、国立がん研究センター研究所に行きました。一般・消化器外科では臓器班に属するだけでなく、研究班にも属さないといけなかったんです。大学に戻るということは臨床だけでなく、研究もしなさいということですね。研究も今とは違い、基礎研究をしなさいということになっていました。慶應では基礎研究をして成果を上げないと博士号が取れません。そこで私は腫瘍班という研究班に入りました。臓器班はタテ社会ですが、研究班はヨコで繋がっている感じです。一般的には大学でテーマをもらって研究して、英文論文を書き、論文博士になるというケースが多かったのですが、私は国立がん研究センター研究所に国内留学をしろと言われました。私は「嫌です」と言ったのですが(笑)、「お前しかいない」と言われたので、行きました。それで2年間はメスを持たず、がんの基礎研究オンリーの日々を送りました。
─ 研究は面白かったですか。
辛かったです。基礎研究を知らない人が基礎研究でご飯を食べている人のところで研究するわけですので、がんセンターの先生も違和感があっただろうと思います。先生方が話されていたこともよく分からなかったですし、カンファレンスでもちんぷんかんぷんで、分からないことだらけでした(笑)。何かを教わるたびに頭を下げていましたね。最初の半年間は試験管を持つことなく、研究論文を読んでいただけで終わりました。
─ どのようなテーマで研究されたのですか。
テーマはがんセンターで与えられたのですが、「がんの浸潤転移機構」を解明しなさいという、大雑把なテーマしか与えられず、その中で自分で考えてやりなさいということで、毎朝6時頃から直属の上司の先生とミーティングしていました。
─ 6時ですか。
その先生は5時ごろには来ているんですよ。私もそれまでは上司よりも早く出勤することを心がけていましたが、さすがに5時は無理でした。
─ 5時だと電車もないですしね。
その先生は自転車なんですよ(笑)。そこで毎日「何をやりたいの」と聞かれて、「これはどうでしょう」と尋ねると、「それはもうやられているよね」の繰り返しが半年ほど続きました。最終的には「これをやりたいから、お願いします」ということでゴーサインをもらい、研究しました。その2年間は暮れも正月も関係なく、365日休まず、出勤していました。分からないことが山ほどあることが悔しくて、人生で一番勉強した2年間でした。なんとか2年間で成果が出て、論文にできる目安が立ちましたので、大学に戻りました。

